2015年01月19日

小説と映画の違い:妄想の客観性

まだ平井和正氏の死去がこたえている。

色々と考えるに、小説と映画の違いは、
一人称と三人称の違い、すなわち、
妄想爆発してもOKの世界と、
妄想に齟齬があれば穴だらけであり、きちんと整合性を取らない限り信用されない、
「変じゃね?」と突っ込まれない、
「変じゃない」客観的世界の差ではないかと思う。


作者と編集者ぐらいのチェックに対して、映画脚本は100人ぐらいチェックする。
(それでも穴だらけの脚本はあるけどな!)

一人の中の想像の小説に対して、
映画はそこに役者を置き、実際に演じてみせる。

そこに実在する客観的な物語、という映画に対して、
小説は「物語という妄想」を楽しむのではないかと思える。
妄想が面白ければそれでよく、テーマとかは読み込んで探してね、
という小説のスタンスがあまり好きではないのは、
僕が映画側にいるからかも知れない。

小説は、妄想がすべて。客観的整合性やテーマ性や世界の変化はどうでもいい。
映画はその逆。
極端に言うと、そういう違いではないか、
と思うようになってきた。


たとえば、主人公がヘンテコなビジョンを見たとする。
小説ではその「意味」までは語られず、想像の範囲とする。
そのビジョンの面白さや暗示の面白さが出来のすべて。

映画では、「そんなこと現実には起こらない」から、
主人公は狂っていたのだ、とか、宇宙人からのメッセージだったのだ、とか、
トラウマの夢だったのだ、とか、夢に進入されてインセプションされたのだ、とか、
異世界の超能力少女からの助けてくれメッセージだったのだ、とか、
内なる人格からのメッセージだったのだ、
とか、とにかく落ち(理由)を用意するものだ。

その違い、みたいな。




ネットで色々見て、
「幻魔大戦deepトルテック(一応完結編)」の、
なんとなくの結末を知ってしまったからだ。
その落ちはひどいぜ。
小説とは、「落ち」じゃなくて「途中」でしかないんじゃねえかなあ。
(勿論そうでない、真摯な小説も沢山あるのだろうけど)
posted by おおおかとしひこ at 17:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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