まだ平井和正氏の死去がこたえている。
色々と考えるに、小説と映画の違いは、
一人称と三人称の違い、すなわち、
妄想爆発してもOKの世界と、
妄想に齟齬があれば穴だらけであり、きちんと整合性を取らない限り信用されない、
「変じゃね?」と突っ込まれない、
「変じゃない」客観的世界の差ではないかと思う。
作者と編集者ぐらいのチェックに対して、映画脚本は100人ぐらいチェックする。
(それでも穴だらけの脚本はあるけどな!)
一人の中の想像の小説に対して、
映画はそこに役者を置き、実際に演じてみせる。
そこに実在する客観的な物語、という映画に対して、
小説は「物語という妄想」を楽しむのではないかと思える。
妄想が面白ければそれでよく、テーマとかは読み込んで探してね、
という小説のスタンスがあまり好きではないのは、
僕が映画側にいるからかも知れない。
小説は、妄想がすべて。客観的整合性やテーマ性や世界の変化はどうでもいい。
映画はその逆。
極端に言うと、そういう違いではないか、
と思うようになってきた。
たとえば、主人公がヘンテコなビジョンを見たとする。
小説ではその「意味」までは語られず、想像の範囲とする。
そのビジョンの面白さや暗示の面白さが出来のすべて。
映画では、「そんなこと現実には起こらない」から、
主人公は狂っていたのだ、とか、宇宙人からのメッセージだったのだ、とか、
トラウマの夢だったのだ、とか、夢に進入されてインセプションされたのだ、とか、
異世界の超能力少女からの助けてくれメッセージだったのだ、とか、
内なる人格からのメッセージだったのだ、
とか、とにかく落ち(理由)を用意するものだ。
その違い、みたいな。
ネットで色々見て、
「幻魔大戦deepトルテック(一応完結編)」の、
なんとなくの結末を知ってしまったからだ。
その落ちはひどいぜ。
小説とは、「落ち」じゃなくて「途中」でしかないんじゃねえかなあ。
(勿論そうでない、真摯な小説も沢山あるのだろうけど)
2015年01月19日
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