デジタルでいまのところ一番重いのは、映像だ。
非圧縮なら、
SDでさえ1フレームあたり、1Mあった。1秒で30Mである。
HDの数分なら、2桁から3桁Gはたたき出す。
それって、そこまで情報量ある?
一番軽いのはなんだ。テキストだ。
1Mあれば、相当な内容が書けるはずだ。
ちなみに小説版てんぐ探偵の第一集のテキストは、
5話で200Kだ。
メガバイトではない、キロバイトである。
つまり、5集25話が、SDの1フレームに等しい。
予定では11集55話なので、
その全ての物語が、SD2フレームに収まる情報量である。
ついでに、HDの1フレームは、その6倍、30集600話に等しい。
たぶん俺はそんなに書かない。
映像って、そこまで情報量ある?
ないよね。
不快なほどに圧縮したとしても、数Mぐらいだろう。
それが、テキストの持つ情報量には、全く勝てていない。
技術者は、画素とかビットレートとか容量とかを、
情報量の基準にする。
それは通信が前提だからだ。
SD2フレーム、つまり40万画素(ガラケーレベル)の写真2枚で、
小説てんぐ探偵全部おさまるとは、
その技術者は誰も思っていないだろう。
技術者が「ハイクオリティ」というとき、
それは画素が多いことであり、
フレームレートが良好なことであり、
それらが圧縮されていないことであり(または低圧縮)、
音質のサンプルレートが高いことである。
それは、内容のクオリティの高さと比例してるだろうか?
クオリティたけえ、という感想は、
何を高いと思っているのだろう?
デジタルの発展の問題は、
「ハイクオリティ」とは、ファイルの大きさのことをさしていて、
内容の良さを指さなくなってしまったことに原因がある。
てんぐ探偵1巻は、ラノベ程度の1巻ぐらいに文字数がひとしく、
文庫一冊の8割程度である。
その30冊分が、HDのたかが1フレームだ。
たとえば幻魔大戦20巻と、新幻魔、ハルマゲドン、ハルマゲドンの少女、
が全巻おさまる情報量にひとしい。
なんだこの情報量格差。
デジタルは、物語芸術を幸せにしただろうか?
そもそも情報の濃かったものを、
ビットレートをあげて、画素数をあげて、
それが高いものばかり崇拝する数字教になりさがり、
結果的に、内容を薄め続けているのではないだろうか?
何倍に?
僕がインターステラーを見て思い出すことは、
絵や音や演出のクオリティが高いのに、
一昔前の脚本だなあ、ってことだ。
一昔前の脚本を、現代の技術で見せている違和感がつのる。
昔の建物を、壁紙や床材だけはってリノベーションと称した店みたいに。
この脚本なら、70で撮らなくても、35のスタンダードで、
80年代の演出でいいじゃねえか、と思った。
この絵のクオリティなら、もっと進化した物語が見たいと思った。
むしろ「2001年」より後退してるとすら感じたほどだ。
逆に、今の演出家はかわいそうだ。
技術に振り回され、
技術の発展していなかったときの、技術と物語の近しい共犯関係について、
学ぶ機会を逸している気がする。
僕が小説を書き始めたのは、物語の根本を見るためなのかも知れない、
とすら、最近思っている。
4K?はらいてえわ。
2015年01月19日
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