2015年01月19日

デジタルは人を幸せにしない:情報量

デジタルでいまのところ一番重いのは、映像だ。
非圧縮なら、
SDでさえ1フレームあたり、1Mあった。1秒で30Mである。
HDの数分なら、2桁から3桁Gはたたき出す。
それって、そこまで情報量ある?


一番軽いのはなんだ。テキストだ。
1Mあれば、相当な内容が書けるはずだ。
ちなみに小説版てんぐ探偵の第一集のテキストは、
5話で200Kだ。
メガバイトではない、キロバイトである。

つまり、5集25話が、SDの1フレームに等しい。
予定では11集55話なので、
その全ての物語が、SD2フレームに収まる情報量である。

ついでに、HDの1フレームは、その6倍、30集600話に等しい。
たぶん俺はそんなに書かない。

映像って、そこまで情報量ある?
ないよね。

不快なほどに圧縮したとしても、数Mぐらいだろう。
それが、テキストの持つ情報量には、全く勝てていない。


技術者は、画素とかビットレートとか容量とかを、
情報量の基準にする。
それは通信が前提だからだ。

SD2フレーム、つまり40万画素(ガラケーレベル)の写真2枚で、
小説てんぐ探偵全部おさまるとは、
その技術者は誰も思っていないだろう。

技術者が「ハイクオリティ」というとき、
それは画素が多いことであり、
フレームレートが良好なことであり、
それらが圧縮されていないことであり(または低圧縮)、
音質のサンプルレートが高いことである。

それは、内容のクオリティの高さと比例してるだろうか?
クオリティたけえ、という感想は、
何を高いと思っているのだろう?


デジタルの発展の問題は、
「ハイクオリティ」とは、ファイルの大きさのことをさしていて、
内容の良さを指さなくなってしまったことに原因がある。

てんぐ探偵1巻は、ラノベ程度の1巻ぐらいに文字数がひとしく、
文庫一冊の8割程度である。
その30冊分が、HDのたかが1フレームだ。
たとえば幻魔大戦20巻と、新幻魔、ハルマゲドン、ハルマゲドンの少女、
が全巻おさまる情報量にひとしい。

なんだこの情報量格差。


デジタルは、物語芸術を幸せにしただろうか?

そもそも情報の濃かったものを、
ビットレートをあげて、画素数をあげて、
それが高いものばかり崇拝する数字教になりさがり、
結果的に、内容を薄め続けているのではないだろうか?
何倍に?

僕がインターステラーを見て思い出すことは、
絵や音や演出のクオリティが高いのに、
一昔前の脚本だなあ、ってことだ。
一昔前の脚本を、現代の技術で見せている違和感がつのる。
昔の建物を、壁紙や床材だけはってリノベーションと称した店みたいに。
この脚本なら、70で撮らなくても、35のスタンダードで、
80年代の演出でいいじゃねえか、と思った。
この絵のクオリティなら、もっと進化した物語が見たいと思った。
むしろ「2001年」より後退してるとすら感じたほどだ。

逆に、今の演出家はかわいそうだ。
技術に振り回され、
技術の発展していなかったときの、技術と物語の近しい共犯関係について、
学ぶ機会を逸している気がする。


僕が小説を書き始めたのは、物語の根本を見るためなのかも知れない、
とすら、最近思っている。


4K?はらいてえわ。
posted by おおおかとしひこ at 18:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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