ドラマといっても最近10話とか8話とか短くなってきて、
長い間毎週毎週見るもの、という定型が崩れてきていて、
2クールや4クールという、基本型がなくなってきたけど。
単発と長い連続、という枠組みで見るならば、
ホームがあるかないか、というところだ。
映画の話から。
はじまった当初の日常がホームだ。
そこにきっかけというターニングポイントが起こり、
日常はおかしくなりはじめる。
事件である。
それが解決するまでが、映画的物語だ。
ラスト、主人公はホームに帰る(象徴的に)。
逆に、ラストまで主人公はホームに帰らない。
勿論、物理的に帰ることはあるが、
それは真の帰還ではない。
解決していない問題のことで、「気が気でない」からである。
つまり、真の意味でホームに帰るのは、
ラストだけだ。
映画とは、ホームを出て、再びホームに戻るまでの、
旅のことを言うのである。
そして、ただ行って帰ってきただけだと、
「意味がない」。なんらかの意味のあった旅こそ、
その旅の価値である。
大抵、旅の途中で主人公は内なる何かを克服、解消して、
冒険の旅を終えてくる。
変化(成長)である。
ホームからはじまり、事件が起こり旅に出て、
ラストにホームに戻ったときに、
変化が訪れていることが、
映画の仕組みである。
勿論物理的でなく、象徴的な話をしている。
絵的にもろで分かりやすいのは「スタンド・バイ・ミー」だ。
旅に出るのは開始15分と、非常に早い。
「死体がある、見つけにいこうぜ」という、
日常から外れた事件の情報が入るのが、
開始7分である。ここから帰還するまで、ホームは出てこない。
そしてホームに戻ったときに、成長を自覚する。
「ランボー完結編」のラストシーンは、家への帰還だった。
ランボーとは、ベトナム戦争で受けた心の傷の癒しの、
長期的物語であり、
それはついに終わったのだな、と分かりやすい、
シリーズ完結編にふさわしいラストだった。
彼は二度と自分の為の戦いをすることはないだろう。
物理的に戦場に出ることはあるかも知れないが、
彼の心の旅は既に終わったからだ。
案の定、彼はまたまた戦場に出ている。
エクスペンダブルズのリーダーとしてだ。
そして今日も、自分の為にではなく他人の為に戦っている。
勿論彼はランボーではないが、
エクスペンダブルズのリーダーは、
ランボーのその後のスタローンであることは、
誰でも分かるだろう。
だから彼は内面を晒さない。
すでに内面の旅を終えた、「大人」だからだ。
さて、ドラマはこのような構造ではない。
「常にホームがあること」が前提だ。
一話完結の最もプリミティブなものは、
「家またはどこかで事件があり、
それが解決してもとに戻る」である。
ホームからはじまり、ホームに戻る。
このとき変化や成長はしていない。
全体で見れば、常にホームがある、という状態だ。
よく旅行から帰ったおかんが、やっぱり家が一番ねえ、
と言うことと、基本的には同じだ。
言わないが、毎回言ってるのと同じことをするのが、
ドラマである。
つまり、全てのドラマはホームドラマだ。
ホームドラマとは、ホームがあるドラマのことだ。
話題がホームかどうかは関係なく、
ホームのある安心が背景に必ずあるものを言う。
逆に映画は非ホームドラマだ。
ホームから逸脱し、ホームに戻ることが無意識の目的になっているからだ。
これは、放映形式に関係していると思う。
一回きりの単発と、
毎週毎週この人たちに会う、ということの違いだと思う。
長さの関係もある。
ずっとホームのない1クールとか、書くのはとても難しいからだ。
どこかで橋頭堡の確保が、人または人々には、必要だからだ。
ホームレス中学生だってうんこの中をとりあえずのホームにするし、
漂流教室だって教室が新たなホームになるし、
「とんでもない人と住むことになった新生活(ニューホーム)」は、
ドラマのド定番である。
(このパターンは映画でもあるが、映画の場合、新生活のドタバタよりも、
それが解消したあとのことに主題がある。
「プリティウーマン」で、二人の関係が解消するのは第一ターニングポイントである。
これ以降の二人の関係が、あれこれあることが本題だ)
ホームレス中学生は映画もドラマもあったが、
映画の主眼は「ホームのないことの不安」だったのに対し、
ドラマの主眼は「ホームレス生活の面白さ
(こんなおもろいことがあった)」だった筈だ。
つまり、ドラマはホームレス生活がホームになっていた筈だ。
(僕は元になった滑らない話と、映画版しか見ていないので、
推測である)
実写風魔の場合は、勿論、柳生屋敷がホームである。
つまりホームとは、どこで寝泊まりするか、
という具体的な話だ。
ホテル生活や放浪生活が映画であり、
一定の所で数クール暮らすのがドラマだ。
(勿論、絵で示すのではなく象徴的でもいい)
昼ドラでは、怒濤の流転が売りでもあるが、
その時々での主人公の身分が固定し、
(ただの主婦→転落して金持ちのお手伝い→掃除婦など)
その場所のネタが尽きたら次の身分へいくだけの話だ。
ホームはその時の身分と考えればよく、
ホームが数回変わるドラマだと思うと、
映画とドラマの間のように見える。
このホームは、日本で次々に変化してきている。
江戸時代ぐらいまでは、
村や一族郎党がホームだった。
明治から昭和は、家(一軒家単位)である。
80年代の核家族化あたりから、家への不審がはじまった。
例えば家の私は本当の私ではなく、不倫してる私が本当、
という不倫にホームを求めるドラマ、不倫が流行ったり、
家はダサい、若者だけのキラキラした生活がホームという、
トレンディドラマが流行ったり、
そのなかでも気が合う奴だけの共同生活をホームにしたり、
バイト先がホームになったり、
変なやつとのひょんな同居がホームになった。
変な家や変なバーも、ホームになった。
あるいは変な島がホームになることもあった。
逆に、やっぱ田舎だ、とかやっぱ家だ、というカウンターもあった。
今や、学校にも家にも会社にもホームはなく、
多分ネットがホームなのではないかな。
ドラマの歴史を見れば、
日本人が何をホームと思ってきたかを、辿ることが出来る筈だ。
ドラマとは、ホームの肯定や安心がベースにあり、
映画とは、ホームの喪失や奪還がベースにある。
女はドラマが好きで、男は映画が好きなのは、
このような本質の差があると僕は考えている。
ついでに実写風魔の解説を。
風魔は、一見柳生屋敷をホームとしたドラマであるが、
小次郎側から見たら、
安住の地(忍びとは何かという答え)を探すための、
旅の物語である。
つまり主人公小次郎にとっては映画的なのだ。
風魔の里というホームを出て、そこへ帰還するまでの、
映画的物語なのである。
当然、出発時と帰還時で内面の変化がある。
新しい形の忍びとなったこと、だ。
それを外面的な変化、風林火山のマスター、で示している。
(マグネットコーティング、と僕はガンダムになぞらえて言う。
成長を物理的に表現するもの)
勿論その鍵になったのは麗羅と姫子だ。
何故風魔が面白いか。
それは小次郎にとっては映画的物語になっていて、
全体で見たらドラマになっている、
という、巧みな構造のためであるとも言えるだろう。
(丁度僕が映画的部分を、ドラマ的部分を市野さんが担当するような、
巧みな住み分けの構成になっている)
ドラマはホームの肯定、
映画はホームへの帰還を目指す旅。
この違いが両者を決定的に分けるものだ。
以下蛇足。
東丈が帰還しなかった小説幻魔大戦サーガは、
映画的な物語と考えれば失敗作である。
ドラマ的物語と考えれば、まあ、それもあるかも、と考えられなくもない。
GENKENがホームか、と言われると、ホーム否定こそがテーマだったようだし。
蛇足その2。
テレビドラマが短くなり、ホームに戻りにくくなっている。
それは、「家で落ち着いてテレビを見ること」が、
もはや「ホーム」でなくなってきていることと、
関係していると思うが、どうだろう。
2015年01月20日
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