2015年01月20日

映画とドラマの違い

ドラマといっても最近10話とか8話とか短くなってきて、
長い間毎週毎週見るもの、という定型が崩れてきていて、
2クールや4クールという、基本型がなくなってきたけど。

単発と長い連続、という枠組みで見るならば、
ホームがあるかないか、というところだ。


映画の話から。

はじまった当初の日常がホームだ。
そこにきっかけというターニングポイントが起こり、
日常はおかしくなりはじめる。
事件である。
それが解決するまでが、映画的物語だ。
ラスト、主人公はホームに帰る(象徴的に)。
逆に、ラストまで主人公はホームに帰らない。

勿論、物理的に帰ることはあるが、
それは真の帰還ではない。
解決していない問題のことで、「気が気でない」からである。

つまり、真の意味でホームに帰るのは、
ラストだけだ。
映画とは、ホームを出て、再びホームに戻るまでの、
旅のことを言うのである。

そして、ただ行って帰ってきただけだと、
「意味がない」。なんらかの意味のあった旅こそ、
その旅の価値である。
大抵、旅の途中で主人公は内なる何かを克服、解消して、
冒険の旅を終えてくる。
変化(成長)である。
ホームからはじまり、事件が起こり旅に出て、
ラストにホームに戻ったときに、
変化が訪れていることが、
映画の仕組みである。
勿論物理的でなく、象徴的な話をしている。

絵的にもろで分かりやすいのは「スタンド・バイ・ミー」だ。
旅に出るのは開始15分と、非常に早い。
「死体がある、見つけにいこうぜ」という、
日常から外れた事件の情報が入るのが、
開始7分である。ここから帰還するまで、ホームは出てこない。
そしてホームに戻ったときに、成長を自覚する。

「ランボー完結編」のラストシーンは、家への帰還だった。
ランボーとは、ベトナム戦争で受けた心の傷の癒しの、
長期的物語であり、
それはついに終わったのだな、と分かりやすい、
シリーズ完結編にふさわしいラストだった。

彼は二度と自分の為の戦いをすることはないだろう。
物理的に戦場に出ることはあるかも知れないが、
彼の心の旅は既に終わったからだ。

案の定、彼はまたまた戦場に出ている。
エクスペンダブルズのリーダーとしてだ。
そして今日も、自分の為にではなく他人の為に戦っている。
勿論彼はランボーではないが、
エクスペンダブルズのリーダーは、
ランボーのその後のスタローンであることは、
誰でも分かるだろう。
だから彼は内面を晒さない。
すでに内面の旅を終えた、「大人」だからだ。



さて、ドラマはこのような構造ではない。
「常にホームがあること」が前提だ。

一話完結の最もプリミティブなものは、
「家またはどこかで事件があり、
それが解決してもとに戻る」である。
ホームからはじまり、ホームに戻る。
このとき変化や成長はしていない。

全体で見れば、常にホームがある、という状態だ。

よく旅行から帰ったおかんが、やっぱり家が一番ねえ、
と言うことと、基本的には同じだ。
言わないが、毎回言ってるのと同じことをするのが、
ドラマである。
つまり、全てのドラマはホームドラマだ。
ホームドラマとは、ホームがあるドラマのことだ。
話題がホームかどうかは関係なく、
ホームのある安心が背景に必ずあるものを言う。

逆に映画は非ホームドラマだ。
ホームから逸脱し、ホームに戻ることが無意識の目的になっているからだ。


これは、放映形式に関係していると思う。
一回きりの単発と、
毎週毎週この人たちに会う、ということの違いだと思う。

長さの関係もある。
ずっとホームのない1クールとか、書くのはとても難しいからだ。
どこかで橋頭堡の確保が、人または人々には、必要だからだ。

ホームレス中学生だってうんこの中をとりあえずのホームにするし、
漂流教室だって教室が新たなホームになるし、
「とんでもない人と住むことになった新生活(ニューホーム)」は、
ドラマのド定番である。
(このパターンは映画でもあるが、映画の場合、新生活のドタバタよりも、
それが解消したあとのことに主題がある。
「プリティウーマン」で、二人の関係が解消するのは第一ターニングポイントである。
これ以降の二人の関係が、あれこれあることが本題だ)

ホームレス中学生は映画もドラマもあったが、
映画の主眼は「ホームのないことの不安」だったのに対し、
ドラマの主眼は「ホームレス生活の面白さ
(こんなおもろいことがあった)」だった筈だ。
つまり、ドラマはホームレス生活がホームになっていた筈だ。
(僕は元になった滑らない話と、映画版しか見ていないので、
推測である)

実写風魔の場合は、勿論、柳生屋敷がホームである。


つまりホームとは、どこで寝泊まりするか、
という具体的な話だ。
ホテル生活や放浪生活が映画であり、
一定の所で数クール暮らすのがドラマだ。
(勿論、絵で示すのではなく象徴的でもいい)


昼ドラでは、怒濤の流転が売りでもあるが、
その時々での主人公の身分が固定し、
(ただの主婦→転落して金持ちのお手伝い→掃除婦など)
その場所のネタが尽きたら次の身分へいくだけの話だ。
ホームはその時の身分と考えればよく、
ホームが数回変わるドラマだと思うと、
映画とドラマの間のように見える。


このホームは、日本で次々に変化してきている。
江戸時代ぐらいまでは、
村や一族郎党がホームだった。
明治から昭和は、家(一軒家単位)である。

80年代の核家族化あたりから、家への不審がはじまった。

例えば家の私は本当の私ではなく、不倫してる私が本当、
という不倫にホームを求めるドラマ、不倫が流行ったり、
家はダサい、若者だけのキラキラした生活がホームという、
トレンディドラマが流行ったり、
そのなかでも気が合う奴だけの共同生活をホームにしたり、
バイト先がホームになったり、
変なやつとのひょんな同居がホームになった。

変な家や変なバーも、ホームになった。
あるいは変な島がホームになることもあった。
逆に、やっぱ田舎だ、とかやっぱ家だ、というカウンターもあった。

今や、学校にも家にも会社にもホームはなく、
多分ネットがホームなのではないかな。
ドラマの歴史を見れば、
日本人が何をホームと思ってきたかを、辿ることが出来る筈だ。


ドラマとは、ホームの肯定や安心がベースにあり、
映画とは、ホームの喪失や奪還がベースにある。
女はドラマが好きで、男は映画が好きなのは、
このような本質の差があると僕は考えている。


ついでに実写風魔の解説を。
風魔は、一見柳生屋敷をホームとしたドラマであるが、
小次郎側から見たら、
安住の地(忍びとは何かという答え)を探すための、
旅の物語である。
つまり主人公小次郎にとっては映画的なのだ。
風魔の里というホームを出て、そこへ帰還するまでの、
映画的物語なのである。

当然、出発時と帰還時で内面の変化がある。
新しい形の忍びとなったこと、だ。
それを外面的な変化、風林火山のマスター、で示している。
(マグネットコーティング、と僕はガンダムになぞらえて言う。
成長を物理的に表現するもの)
勿論その鍵になったのは麗羅と姫子だ。

何故風魔が面白いか。
それは小次郎にとっては映画的物語になっていて、
全体で見たらドラマになっている、
という、巧みな構造のためであるとも言えるだろう。
(丁度僕が映画的部分を、ドラマ的部分を市野さんが担当するような、
巧みな住み分けの構成になっている)


ドラマはホームの肯定、
映画はホームへの帰還を目指す旅。
この違いが両者を決定的に分けるものだ。




以下蛇足。

東丈が帰還しなかった小説幻魔大戦サーガは、
映画的な物語と考えれば失敗作である。
ドラマ的物語と考えれば、まあ、それもあるかも、と考えられなくもない。
GENKENがホームか、と言われると、ホーム否定こそがテーマだったようだし。

蛇足その2。

テレビドラマが短くなり、ホームに戻りにくくなっている。
それは、「家で落ち着いてテレビを見ること」が、
もはや「ホーム」でなくなってきていることと、
関係していると思うが、どうだろう。
posted by おおおかとしひこ at 13:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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