僕は以前に、
多彩なキャラクターを書くことは多重人格障害(現在の名は解離性同一障害)
に似ている、と書いた。
物語とは、その統合過程のようなものだと。
シャドウ(アンタゴニスト)の存在など、
僕は心理学にそこまで詳しくないが、
シャドウとのコンフリクトとアウフヘーベンという物語理論そのものが、
心理学的な統合過程であるような気がしている。
幻魔大戦とは、平井和正氏の中の人格分裂障害的なものであった、
と考えると納得がいくのだ。
その後、どうしても気になり、東丈失踪の理由や帰還の経緯などを調べまくり、
「幻魔大戦deep」「幻魔大戦deepトルテック」(公式的な完結編、電子書籍のみ)
のネタバレを知ってしまった。
以下は、脚本を長いこと書き、小説の走りのようなものを書いている僕なりの、
真相解明の議論である。
(以下ネタバレ)
ネット情報に寄れば、
東丈はプレッシャーから逃げる為に失踪した。
また、幻魔のことを考えることが幻魔になってしまうことだ、
という理由で、
幻魔を意識から排除することで大戦が終わった、というのだ。
これはほとんど多重人格の統合と同じことではないだろうか、
というのが結論だ。
平井和正の文体は憑依型である。
一冊まるまる東丈の語りで占められたものもあった。
その人が乗り移ったような物凄い文体が最大の魅力だ。
これは、人格の乗っ取り性がとても高いと思う。
その東丈人格が、別人格(井沢郁江)にのり変わったことが「失踪」である、
と考えると納得がいく。
原因は、プレッシャーによる退行である。
おそらく、キリストが十字架にかけられる状況と似た状況が、
「失踪」直前に起きていた。
信者たちの未熟や、高鳥の暗躍や、マスコミの誤解による過熱や、
箱根の幽霊さわぎなどだ。
いずれどこかでボロを出し、
未熟な信者たちにフルボッコにされる展開(デビルマンのような)は十分予感できた。
高鳥がその際ユダになるだろうことも期待されていた。
キリストのような、死をもって信者を目覚めさせる役割。
そのプレッシャー、もしくはその展開以上を思いつかないことに、
東丈人格が単純に負けたのだと思う。
これは僕が執筆中によく経験することだ。
この主人公(=俺)じゃ解決出来ないよ!と弱音を吐く瞬間だ。
長年やってるので、色々逃げ方があって、
一番ポピュラーなのは、別キャラに助け舟を出してもらうことだ。
たとえば「てんぐ探偵」のシンイチは、相棒ネムカケによく助け舟を出してもらう。
三人称バディものの便利なところである。
(バディものは、二人の人格ではなく、
同一人物の二つの面を出したものだとよく言われる。
あとで議論するように、対極の二人は安定する)
逆に、一人称形では近視眼的過ぎて難しいと思う。
一人称は孤独だからである。
東丈も、まさに孤独な、バディのいない状態だった。
平井和正は、おそらく似たような道をたどった。
ただし井沢郁江が三人称で助け舟を出すのではなく、
一人称が「井沢郁江人格に交代する」ことによって。
(平井和正が帰依した宗教団体で、
「教祖が死に娘が継いだ」ことのアナロジーを見る人もいるけど、
僕は書き手として、そこまでベタなことはしないと思う。
小説幻魔はその団体を抜けたあとに書いたものであり、
宗教団体批判が根っこにあったからだ。
団体批判するという三人称人格から見れば、
東派と郁江派に別れ、さらに高鳥派に分裂した方が、面白いに決まっているからだ。
ひょっとしたらその娘に振られた恨みもあるかも知れない。
そのような個人的怨恨が創作の動機となることは、みなさんご存知だろう。
物語を創作するということは、そのようなものの昇華行為であるから)
東丈人格は、今後の展開を怖がったのだ。
平井和正は言霊作家を自称した。
物語を書くのではなく、憑依によるほとんど自動書記なのだと。
それは多重人格の半歩手前である。
東丈を書くのではなく、東丈の人格が書いているのだから。
これは物語を書く作家なら、大なり小なり経験していることである。
なりきる、ということはその人格になることだからだ。
平井和正は、それが大なる人であった。それが魅力だった。
その人格を統御している俯瞰人格を持ちながら書かないと、
現場の勢いに持って行かれて、大抵の物語は暴走し、
うまく結末を迎えられないものだ。
これも作家志望の人やプロの作家も、大なり小なり経験していることだ。
幻魔も、そのひとつにすぎなかっただけだ。
いくつかのバリエーションで、幻魔は再起動されようとした。
パラレルワールドというSF的言い訳だが、
それは多重人格障害の統合過程の、何度目かのやり直しセッションにすぎない。
(そして真幻魔のバージョンでも、同じく東丈は失踪する)
幻魔が不幸だったのは、シャドウである敵方をまったく描かなかったことにある。
初期のザンビとザメディはマンガ版のキャラを借りたものであり、
オリジナルの幻魔は一度も姿を現さなかった。
乗っ取る形でしか姿を現さず、その姿のなさが不気味で面白かったのはあるけど。
つまり、主人公東丈とシャドウの物語的関係がどこにもなかったのである。
物語は、主人公とシャドウの統合過程として語られるべきものだ。
逆に言えば、主人公はシャドウの存在によって「安定する」のだ。
ルークスカイウォーカーがへっぽこでも、ダースベイダーによって安定するのである。
(エピソード1-3では、シャドウがシスなのかオビワンなのか曖昧なため、
物語が面白くなかった)
シャドウの欠如によって、主人公人格が安定せず、
結果、様々なキャラ=多数の人格を次々に生み出さざるを得なかったのである。
そして、不幸にも、高鳥すらシャドウに成長しきることがなかった。
その理由は簡単で、高鳥があとに登場したからである。
物語開始当初からいるキャラクターでない限り、シャドウになることは困難である。
江田四郎、東三千子、最初につきあってた子(名前失念)あたりが妥当なところだ。
僕の予測では、おそらく、東丈のシャドウはルナであるべきだった。
(東三千子の存在あるがゆえに、三千子のシャドウが東丈になりかかっていた。
東丈がルキフェルとして再臨し、三千子と闘うというアイデアは、その具現だ)
東丈の「敵」をルナ王女にすれば、東丈は安定してGENKENを主催し、
メイン財団と張り合う展開になり、超能力集団を金で適当に主催することが悪だとなり、
その先鋒のルナとコンフリクトを起こし、
その統合過程として、最終的にルナ王女と結ばれた筈だ。
完結編で、ついにシャドウが出て来たのだそうだ。
ザンビでもザメディでも幻魔大王でもカフーでもルシファー因子でもなく、
幻魔司政官シグというマンガ版のキャラが。
これを倒すことであっさりと大戦は終結したのだそうだ。
つまり、平井和正にとってのシャドウとは、
結局は袂を分った石森章太郎だったのである。
東丈はついに帰還し、「幻魔大王と最終決戦に入った」のだという。
それは、人格統合が終わったあとのあとづけの一行(後日談)にすぎない。
本来人格とシャドウの統合は、シグの消滅でもう終わったのだから。
幻魔と戦うことはそれ自体が幻魔と化す、と東丈は言うのだそうだ。
この言葉から僕は、
「幻魔大戦(多重人格障害)を考えなくなることが人格統合がなされたこと」
という無意識を読み取る。
ハルマゲドンとは、人類対幻魔の超能力バトルではなく、
平井和正への多重人格の乗っ取り(外側から見れば解離)であった。
そう考えると、幻魔大戦の正体が明らかになるような気がする。
作者も、東丈も、「『幻魔』にやられちまった」のだ。
僕は、脚本を書く時は、計画的なプロットをしっかり立ててから、
憑依の自動書記に備えよ、と警告している。
それは、人格の分裂へのセーフティのような気がしている。
初心者が最後まで書けない原因は、
分裂がうまくいかない(複数の他者のコンフリクトをそれぞれの立場から書けない)か、
分裂したけど統合出来ない(憑依が暴走してしまい、出口を見失う)、
のどちらかではないかと考えている。
何故東丈は帰還できたのか。
何故言霊(つまり、分裂した人格)が帰って来れたのか。
時が経ったからだと思う。
生々しい1968年が、十分過去になったからではないかと思う。
生々しいキリストになる恐怖が、十分過去になったからではないかと思う。
もうそのへんはどうでもいいや、とあきらめがついたからだと思う。
どこかでその宗教団体の人と再会したのかもしれない。
平井和正は、長い旅の末、恐らくは老いることで、
初期から読んでいる我々が期待する劇的な結末
(例えば角川アニメ映画版を越えるようなスーパー超能力バトル)
ではなく、ゆるやかな人格統合に成功したのだ。
おつかれさまでした。
多分そうだと分ったから、deepにつきあうことはないと思います。
もしネタバレが違うよ、という生粋の平井ファンがいれば反論お願いします。
それはそれでちゃんと読まなきゃならないかも知れないし。
幻魔とはなんだったのか、という僕なりの答えがこれです。
ウルフガイシリーズはまだ読んでいない。
同じく面白く、未完であるらしい。
暇ができたら読んでみたいと思う。
2015年01月20日
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『地球樹の女神』の主人公四騎忍は“私が徹底的に自我を投影した”“スーパー平井和正”とのことで、終盤で分裂した主人公の“影”と対決するという、“シャドウとのコンフリクトとアウフヘーベン”そのものの展開があります。ちなみにこの作品は完結しています。
なるほど、僕がもういいや、と興味をなくしたあとの氏は、わりと全うなものを書いたのですね。
人格統合の治療者では僕はないのですが、しかし作家の内面は類推できるので、
その「地球樹の女神」が完結への契機だったのかもですね。
数少ない完結する話のようですし。
絵画や音楽が分かりやすいですが、芸術というものは、
狂気が人の心を動かすことがあるものです。
サイケデリックはLSDの幻覚作用であり、統合失調症に見る幻覚と一部一致したりするし。
平井氏の文体の物凄い魔力も、そういうものだったのかなあ、と考えるようになりました。
(分かりやすいのは、古谷実という漫画家の一連の作品。とくに後期作は統合失調の気が強い)
ということで、地球樹の女神、読んでみようかな。
その後にdeepを読めば、納得がいくかもですねえ。
そこは保証しかねます(笑)。なにせ『地球樹の女神』が世に出た当初、“平井和正最大の問題作”と呼ばれてましたし、『地球樹の女神』以後のすべての長編作品に言えると思いますが、人によって受け取り方がまるで違ってくると思いますので…。ただ平井和正を語る上では外せない作品には違いありません。
(極私的な感想で言うなら大好きな作品で、新幻魔のように深い闇の中に終わっていたそれまでの作品のラストからすると、この作品のラストは非常に感慨深いものがありました。)
なお読者作成の平井和正ヒストリーがあったことを思い出しました。ある程度突っ込んだ内容が書かれており、特に90年台以降を知るには非常に役立つかと思いますのでリンクを記載しておきます。
H.K ヒストリー
http://www006.upp.so-net.ne.jp/t_kaname/hk/history.html
十年かけて作った話が正直、支離滅裂で読むに耐えない内容だったのは似てます
周囲の人々も何も諫言出来ず、ただ作品が朽ちるに任せる展開だったという点で今の評価は地に堕ちて作者本人に届いてないのがなんとも…
まだ新作を連載出来てるのはそれでも失望し切れず追っかけてくれる読者がいてくれたからというだけの理由かもしれません
僕はリアルタイムより遅れて読み始めた(アニメ映画が小6、その二年後の中2で読み始めた)ので、
当時の熱狂を知り得る術がなかったんですね。
ただ古本屋で一巻ずつ買って、オリジナル幻魔を読み漁るという。
なので別立て幻魔を読まず先に一気読みしてしまい、
なんやこの最終巻、と失望してそれっきりになりました。
ただものすごいパワーがあったのはたしかで、
あれはなんだったんだろう?とずっと疑問だったんです。
自分が作る側になって初めてわかることがあり、
したためた次第です。
お隠れになった神を追う人間たち、
という構造は「桐島、部活やめるってよ」にも通じますが、
最初から東丈がいないならまだしも、
中折れと批判されてしかるべきと思いますね。