2015年01月21日

リライトの実際(てんぐ探偵20話の例)

序破急の理論のところで、
20話「結婚の提案」(妖怪横文字)の
三幕構成図をせっかく作ったので、
これを利用して、リライトの方針の立て方について議論しよう。

以下、これを見ながら読まれたい。


三幕構成図を見ると、
二幕がやや長いのが目立つ。
三幕が少し短いのも気になる。

実は僕は直感的にこれを察知して、
0.5ページ分の挿絵を入れている。
見かけ上の三幕がその分延びていて、
数字ほどには気にならないはずだ。

ということで、二幕をちょっと切りたいな、となる。
ページ数を検討すると、二幕後半が長い。
ネムカケの蘊蓄を語らせすぎたか。
あるいは、浅草と鎌倉の2Pをコンパクトにすることもあり得る。

削る目標は1Pだ。(1.5はキツイと思う)
浅草鎌倉から1Pか、ここから0.5、ネムカケの説得から0.5Pか。
あるいは、浅草で既にネムカケに喋らせ、
驚くリアクションをここに組み込み、
ネムカケの解説として浅草寺を描く手もある。
物理的に縮むかどうかは分からないが、
「段取りをひとつにする」という縮め方だ。
浅草のあんみつの蘊蓄は切っても大丈夫だろう。うめー、ぐらいにしとけばいい。
聖観音の下りは重要なのであまり切れないと思う。

数字的にはこれで整えられる筈だ。
全体を引き締めたりすれば、理想の1:2:1の三幕構成になるはずである。


だがそれが正しいか。
第二ターニングポイントが弱くね?


いよいよ最終対決であり、
それをクリアすれば妖怪横文字が外れるという予感が、
大事なのではないか?
「日本人は日本語だろ」という結論を予感させる、
ターニングポイントが必要なのではないか?

たとえば、
観光地の外人に道を聞かれ、
江島はしどろもどろになるというのはどうだろう。
あるいは新キャラに頼らず、
シンイチの、江戸時代とかどうやって外人は日本語覚えたの?
って質問でもいいはずだ。
あるいはこういうのはどうだろう。
観光に来た老人カップルに道を聞かれ、
横文字で喋ってしまうというのは。
ネムカケが日本語に通訳しことなきを得てもいい。
その上で実家の父と本音を話さなければならない、という電話
(入院の知らせ、しかも死ぬかも知れないから覚悟をしなさい、
という母の情報あり)
というラストステージへの誘導はどうだろう。


ここのパートが長くなるとすると、
二幕前半をきってゆく。
僕の(間違えた)イメージ通り、
ネムカケのゴネがミッドポイントになるようにだ。
トイレの場面はカットして、屋上に紀子が江島を呼び出す、
などのようにすると、1Pは落とせる。
浅草鎌倉を、ネムカケは元のままで単にあんみつをカットしたりするだけで、
ネムカケのゴネをミッドポイントにすることが出来そうである。
その後をカットするかどうかは分からないが、
三条河原で、
老人に道を聞かれるエピソードを挟み、
電話がやって来るとよさそうだ。

父に、(今通じなかった横文字ではなく)
日本語で話さなければならない、
という予感を、第二ターニングポイントとする。


こうすることで、
第一の尺だけを考えた小直しよりも良くなると思う。


さらに。

最初僕は、母が席を立ちお茶を淹れに行き、
父と話さなければならないところが第二ターニングポイントだとした。
その直感は正しかった。
対決の予感(しかも本音で)が最も良く描かれているからだ。
紀子が私も手伝います、と二人きりにされる、
という体でもよいだろう。
単純に、
そこが第二ターニングポイントになるような尺調整もあり得る。
(道を聞かれるパートなしの、二幕のリライトだけがよいかも)
そうすると三幕をもっと伸ばして行くことになるかも知れない。
紀子がその会話に参加すると、ドラマは白熱しそうだなあ。


このように、リライトは、
各ブロックの物理尺を確認し、
その調整を軽く考えたのち、
大きなターニングポイントから考えるとよい。
それは、そのターニングポイントが、
現状どのような役割を果たしているか、
理想のそれとどう違うかを検討し、
理想の役割を果たすように思いつくようにするといいと思う。

この原稿は30分程度を想定しているからこの程度のネストで良かったが、
二時間の映画のリライトでは、
大ターニングポイントからはじまり、
その下の階層の中ターニングポイントを主にいじることになるだろう。

この4倍の原稿が大体映画脚本の長さである。
リライトに時間がかかり、
しかも一回では上手く行かず、
しかも横槍が色々入ることを現実に考えると、
脚本家の負担がいかに大きいか想像がつくだろう。


そんなことしなくても、
現状の20話はなかなか面白い話だと思う。
より良くなるかどうかはリライトの実力次第だが、
それをやることでテンポが良くなりそうな予感はする。

実際小説のページ数が、
脚本のようなページ数=分数というフォーマットではないため、
このリライトは、脚本だったとして、という条件はつく。

これが映像化されたとき、
多分僕は同じようなリライトをすると思うけど。


内容とかではなく、
テーマと各ポイントの機能と、尺からリライトする、
理系的な手術の方法論のような気がする。

文系的なリライトはどうやるんだろ。
やっぱ○○が目的ではなく△△にするため、
××にしてはどうか、とか延々とやるのかね。
そうするとこの意味と整合性が変わってきて…となって、
無限ループが待っていて、そもそもこれは何のための話か、
という自問自答に陥って次に行けなさそうだ。
正解の基準がなくて、迷路に嵌まりそうな予感だけはする。

テーマを立て、モチーフ(ストーリー)を思いつき、
各パートを書き、それを尺と機能で判断する、
というハリウッド的な脚本理論は、
こうしてみると理系の理論のような気がする。
僕は建築科や工業科ではないが、
理系的な設計と施工に近いような気がする。

小説家は脚本を勉強せよ、という都市伝説は、
文系出身者にこのことを教えようとしてるのかも。
posted by おおおかとしひこ at 14:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック