ホームに対する考え方がまるで違う、
というのが前回までの話。
例えばあまロスという言葉があった。
「あまちゃん」世界に意識が住んでいたかのようだから、
それが終わるとその喪失感が物凄くある、
ということだ。
それはホームを失う喪失感と同じだ。
ドラマは毎回毎回、
そのホームに擬似的に住む感覚を得る。
だからそのホームがどんな場所で、
どんな人達がいて、
が最重要に大事だ。
これは映画と違う。事件や焦点が最重要なことと。
場所と人物で構成されるホームが最重要であるならば、
そのキャラクター設定、舞台設定が最重要になってくるのは当然だ。
僕は映画の立場からこれを重要視する設定厨を批判するが、
ドラマの場合はむしろ逆で、
ホームの設定こそが、心地よいホームになるかどうか決まる。
それはホームの性質上変化してはならない。
だから最終回は、「寂しい」のだ。
通いなれた学校を卒業するような、
ホームがなくなる寂しさを味わう。
もっとも、ホームに飽きてそのドラマから離れた人にとっては、
そんなものはないが。
あまロスはそれが多くの人に強烈だった、
愛されたホームだ、ということだ。
(朝ドラという、毎日の習慣というホーム性も非常に影響している)
映画が終わって、寂しいという感覚はふつうない。
ホームにお別れの時が来るわけではない。
ハッピーエンドで良かったね、である。
更にいい映画はカタルシスの余韻で終わる。
それは、二時間程度の旅を見るからであり、
定期的に住んだホームではないからである。
ドラマでは、登場人物のキャラが大事だ。
そのホームがどんな人で構成されているかが肝だ。
(だからキャスティングだけが突出して話題になる)
事件と解決とカタルシスの焦点よりも、
ホームとの繋がりを感じられることのほうが、
感覚的に大きいのだ。
だが映画では、その方法論は通用しない。
ホームとの繋がりはない。
一気に最初から最後まで見るものであり、
毎回通うホームとの繋がりを見るものではない。
(同じ場面の繰り返しにしか見えないだろう)
キャラクターの配置は重要だが、
それが内容に致命的とは限らない。
映画で重要なのは変化であり、
不安定であり、固定しないことだ。
ホームの喪失からはじまり、
ただ一回止まるのはラストだけだ。
ホームの獲得(奪還)によってしか、止まらないのだ。
(逆にその後はホームドラマにしかならないだろう。
多くの続編が失敗するのは、これが理由だ。
映画ではなくなってしまうのだ。
だからボーンシリーズの2は、1で獲得したホーム、
恋人の死という、ホームの喪失からはじまるのである)
脚本を書いていると、
終わりごろに、ドラマの最終回のような寂しさにふと襲われることがある。
それは読者や観客よりもずっと長い間あなたがその作品に関わることで、
作品世界があなたのホーム化したことを意味する。
しかし観客は二時間の付き合いだから、
その感覚がないことを理解しよう。
また下ネタにたとえるが、
映画は一回切りの風俗嬢、
ドラマは嫁だ。
映画脚本もドラマ脚本も同じフォーマットで書かれる
(長さと冊数が違うだけ)ため、
似たようなものと混同してはならない。
本質が違う。
面白いドラマは、だから二つの要素が混在する。
ホームにいることの幸せを得る、ホームドラマの要素と、
事件と解決という映画的要素である。
大きく言うと、女は前者が好きで、男は後者が好きだ。
本来5:5であるべき要素が、女がドラマを好んだため、
視聴率稼ぎに7:3などに偏重したのだ。
だからテレビドラマはストーリーよりも、
設定やキャスティング重視になり、キャスト同士のイチャコラだけになり、
テレビドラマそのものが凋落していったのだ。
視聴率惨敗が主演のせいにされる理由はそれだ。
ストーリーが詰まらなかったからと誰も言わない。
そもそもストーリーが失われているし、
ストーリーとは何ぞやということを簡単に言える人もいない。
ストーリーとは事件と解決の面白さであり、
ホームの喪失から奪還までの、
不安定から安定への面白さのことである。
2015年01月22日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック