2015年01月22日

小説と映画の違い:地の文の強力さ

 そういえば冷蔵庫に肉があったはず、
 と文恵は台所へ立った。

たったこれだけのことが、映画では表現できない。

 文恵、突然立って台所へいく。
 冷蔵庫をあけ、肉を出す。

のように、現在起こることを逐次カメラで撮ることしか出来ない。
そういえば、のニュアンスは撮れない。

「そういえば肉があったはず」
 と、文恵は立って台所へ。

は、一人言の説明台詞であり下手くそな脚本だ。


つまり、地の文によくあるものは、映画表現に適さない。


 彼と刺し違えるつもりで彼女は待った。

 雨が降ると今朝聞いたのに傘を忘れた。

 彼女がかわいい間違いをしたことを今でも思い出す。

 それは飼い猫の死よりも哀しい出来事だった。

 その瞬間彼女を好きになったことを、悟られないようにした。

などの小説的表現は、映画表現に出来ない。
これらはすべて、「その人の頭の中に浮かぶこと」の表現と、
他者から見た客観的なことを組み合わせている。

ぽわんとマンガみたいに浮かぶ表現、
夜空に何かが浮かぶ昭和的表現は、
なくはないが、今はメジャーではない。
リアリスティックなメソッド芝居主流の現在では尚更だ。


カメラでは、その人の頭の中に浮かぶことは写すことはできない。
その人の発言や行動を外から見て、
頭のなかを推測することしか出来ない。
だから映画では、察せられるように物事を組み立てる。

 彼女の写真をこっそり眺めているが、誰か来たので慌てて隠す。

 冷蔵庫をあけ探すが見つからず扉を閉める。
 去り際に思いだし冷凍庫をあけると肉がある。嬉しそうに取り出す。

 外に出ようとして雨に気づく。
 回想シーンで、朝天気予報を聞き、傘をドアの所におきっぱ。
 雨宿りしながらため息。

などのようにだ。
一部小説的表現と近いものを試しに書いてみたが、
これが全く同じ表現か、と言われると違うと思う。


映画では、内面を書くことは出来ない。
外面に現れたことだけが真実だ。
いくら内面を吐露する長台詞を言ってもそらぞらしい。

小説では、内面や真相こそが真実であり、
見た目の外面的なことは嘘の可能性がある。
いくら外面を巧みに綴っても、実物(写真とか)には勝てない。

映画は、起こったことや外面から、
内面や真相を察することそのものが楽しみである。

小説は、内面に直接触れることが楽しみである。


映画は起こってることそのものを楽しめる。
(アクションとか歌とかダンスとか)
小説はいかに描写を尽くしてもそこは楽しめない。



つまり、小説は映画と全然違う芸術だ。
小説の映画化の問題点は、
その本質の差を理解してるかどうかに掛かっている。
同じことを軸足に出来ないのである。

理想的な小説と映画の関係は、
お互いに同じ世界を共有する、
反対側から描いた鏡像のような関係になることだと思う。
(そもそも文字数が数倍違うから、
まず縮める難しさが先にあるのだけど)


漫画とドラマの関係について、
このようなものを作り得たドラマ風魔の小次郎については、
風魔カテゴリに詳しいのでそちらを参照されたし。



漫画と映画の話は、また今度。
アニメと漫画は近いのかな。あまり考えたことはないが。
漫画「ベルサイユの薔薇」を舞台にするとき、
戦闘シーンを群舞にするという表現の転換を考えた演出家を、
僕はとても尊敬している。
つねに、そのように本質の差を把握したいものだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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