そういえば冷蔵庫に肉があったはず、
と文恵は台所へ立った。
たったこれだけのことが、映画では表現できない。
文恵、突然立って台所へいく。
冷蔵庫をあけ、肉を出す。
のように、現在起こることを逐次カメラで撮ることしか出来ない。
そういえば、のニュアンスは撮れない。
「そういえば肉があったはず」
と、文恵は立って台所へ。
は、一人言の説明台詞であり下手くそな脚本だ。
つまり、地の文によくあるものは、映画表現に適さない。
彼と刺し違えるつもりで彼女は待った。
雨が降ると今朝聞いたのに傘を忘れた。
彼女がかわいい間違いをしたことを今でも思い出す。
それは飼い猫の死よりも哀しい出来事だった。
その瞬間彼女を好きになったことを、悟られないようにした。
などの小説的表現は、映画表現に出来ない。
これらはすべて、「その人の頭の中に浮かぶこと」の表現と、
他者から見た客観的なことを組み合わせている。
ぽわんとマンガみたいに浮かぶ表現、
夜空に何かが浮かぶ昭和的表現は、
なくはないが、今はメジャーではない。
リアリスティックなメソッド芝居主流の現在では尚更だ。
カメラでは、その人の頭の中に浮かぶことは写すことはできない。
その人の発言や行動を外から見て、
頭のなかを推測することしか出来ない。
だから映画では、察せられるように物事を組み立てる。
彼女の写真をこっそり眺めているが、誰か来たので慌てて隠す。
冷蔵庫をあけ探すが見つからず扉を閉める。
去り際に思いだし冷凍庫をあけると肉がある。嬉しそうに取り出す。
外に出ようとして雨に気づく。
回想シーンで、朝天気予報を聞き、傘をドアの所におきっぱ。
雨宿りしながらため息。
などのようにだ。
一部小説的表現と近いものを試しに書いてみたが、
これが全く同じ表現か、と言われると違うと思う。
映画では、内面を書くことは出来ない。
外面に現れたことだけが真実だ。
いくら内面を吐露する長台詞を言ってもそらぞらしい。
小説では、内面や真相こそが真実であり、
見た目の外面的なことは嘘の可能性がある。
いくら外面を巧みに綴っても、実物(写真とか)には勝てない。
映画は、起こったことや外面から、
内面や真相を察することそのものが楽しみである。
小説は、内面に直接触れることが楽しみである。
映画は起こってることそのものを楽しめる。
(アクションとか歌とかダンスとか)
小説はいかに描写を尽くしてもそこは楽しめない。
つまり、小説は映画と全然違う芸術だ。
小説の映画化の問題点は、
その本質の差を理解してるかどうかに掛かっている。
同じことを軸足に出来ないのである。
理想的な小説と映画の関係は、
お互いに同じ世界を共有する、
反対側から描いた鏡像のような関係になることだと思う。
(そもそも文字数が数倍違うから、
まず縮める難しさが先にあるのだけど)
漫画とドラマの関係について、
このようなものを作り得たドラマ風魔の小次郎については、
風魔カテゴリに詳しいのでそちらを参照されたし。
漫画と映画の話は、また今度。
アニメと漫画は近いのかな。あまり考えたことはないが。
漫画「ベルサイユの薔薇」を舞台にするとき、
戦闘シーンを群舞にするという表現の転換を考えた演出家を、
僕はとても尊敬している。
つねに、そのように本質の差を把握したいものだ。
2015年01月22日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック