2015年01月25日

物語の正体

心の病の理論や解離やらをちょいちょい勉強している。
かつて、別の作品を書いたときに。

今回、多重人格(解離性同一障害)を面白おかしく書くために。
それは、心の迷路はあることを示すこと、
あったとしても抜け方があることを示すこと、
この二つの啓蒙という意味がある、と考えてのことだ。
(それはてんぐ探偵全体のテーマでもあることは、
薄々感じられているとは思う)

人は何故物語を書くのか。
人は何故物語を読むのか。
色々な面からの答えがあり、それらは重なりあうことが多い。
今回は、心の病の面からのおはなし。


現実逃避。

誰もが陥ることだ。
それは我々の心の機能、防衛のひとつである。
心が直面するのが辛いから、
柔らかく現実に対処するための方法だ。
現実逃避をすれば、
まあ現実に戻ってもなんとかなるわ、
という行為だ。

これが元に戻れなかったり、
やりすぎになったりするのが、解離という心の病らしい。


現実逃避を考えよう。

物語を読む行為は、現実逃避だ。
そこに浸る極上の時間は誰にも犯されぬ聖域である。

そこに現在の(辛い)自分はいなくて、
架空の自分が、架空の活躍をし架空の勝利をし架空のカタルシスと成長を得る。
そのことにより、
物語世界から帰ってきても、(辛い)現実に耐えうる力を持つ。

そのパワーが減ってきたら、物語世界にまた戻る。
旧作に戻ってもよし、新作を見てもよし。
(糞だったら腹立ったり)


物語を書く行為を考えよう。
もし自分が別の人間だったら。
主人公や敵やヒロインだったら。
それらが何やらをし、最終的に決着をつけるまで。
それは現実逃避である。
現実から逃げるのが目的かどうかは置いといて、
構想や執筆の間、あなたは現実を生きていない。
その世界の中にいる筈だ。


心の病であるところの解離は、
辛いこと(幼児期のトラウマや虐待など、異常に耐え難いもの)
に出会ったとき、現実逃避のさらにキツイやつで起こる。
現実に帰ってこれないほどの、
現実逃避のキツイやつが解離だと思うと、
解離への理解が深まると思う。

だから解離の治療は難しいと思う。
トラウマから逃げるために現在の状況をつくっているのに、
それに無理に直面させられる恐怖を考えれば、
今のほうが安全と考えるのは当然だ。
解離状態のほうが、トラウマに直面するより辛いことだ、
ということを本人が思わない限り、
トラウマへの直面はしないだろう。

有名なビリーミリガンの治療は10年以上かかったという。
(途中の中断など、アメリカはドラマチックすぎる。簡潔なまとめがWikiにもある)
数ヵ月では不可能だ。
数年ごしの現実逃避を、その揺りかごから外に出す行為だからだ。
仮に解離が「治った」としても、
その新しい自分が、現実の辛さに直面したとき、
生まれたてのように対処法を知らないから、
また精神を病むことがある。そのケアのほうが更に大事だ。

また、興味深いことに、
多重人格では、大抵極端な尖った性格の人格が生まれ、
しばしば絵が上手いとか音楽感覚がすごいとかの、
芸術的に尖った才能の持ち主がいるらしい。
更に興味深いことに、
統合後は、それらの芸術的才能は失われるらしいのだ。

本来人格から、尖る方向で分裂していくのだろうと予測される。

絵を描いたり音楽をつくる人は想像できる。
言葉が不自由で、自分とは何か上手く説明出来なくて、
それをするしか出来なくて、
人は絵を描いたり音楽をつくる(こともある)。
魂の叫びだ。
言語でない魂の表現だ。

これが正常な人、つまり言葉でコミュニケーション出来る人になると、
その才能が消失するのだという。
わざわざ絵を描いたりする必要がなくなる、
ということだろう。


人の心は、現実逃避をする。
芸術は、そのひとつだと思う。
味わうのも、つくるのも。

現実があまりに辛くて、
それを言葉にして伝えられなくて、
人は芸術をつくったり、味わうのだ。

「リア充は脚本を書かない」という僕の直感は、
それを裏付けしているように思う。
芸術家は、普通の人のような(リア充のような)コミュニケーションが出来ない。
その代わりの能力なのだ。
そしてそれを味わう人も、なんらかのリア充でないものを、
吸収してその波長を共有するのである。


解離に至る以前の緩衝剤が、現実逃避だとしたら、
人の心と芸術の関係がよくわかるのではないか。



物語とは、芸術のうち、
文字によるストーリーでそれを表現したものだ。
絵や音が補助的に使われるが、
本体は文章だ。
(映画は基本的にこれだが、
映像文体という、モンタージュで文章がわりになるものもある)

ストーリーとは、起承転結や三幕構成だ。
事件があり解決することだ。

解決することが重要だ。

解決しない場合、あるいは続く場合、
底無しの現実逃避になってしまう。
現実逃避は、それが終わり、現実へ帰るときに意味がある。
逃避に行きっぱなしは、精神異常と言われる。

昨今のぐだぐだの物語は、
逃避し続けたい人々の、心の反映だ。
作者が悪い。
正しく逃避世界から現実へ帰る儀式を踏ませていない。
だから現実逃避の世界に住みっぱなしになる。
それじゃ現実世界を生きられないから、
ヘンテコなヲタクをばんばん生み出すことになってゆく。



我々は物語を書く者として、
我々自身が逃避すること、逃避した世界から現実へ帰ってくること、
このふたつを達成する義務がある。
そうでなければ正しい現実逃避にならないからだ。

出来得れば、ただの時間潰しではなく、
辛い現実へ帰るときに、勇気や知恵の実をお土産に持たせたい。
それがテーマであることは、分かっている筈だ。



物語を書くのが未熟な者は、
自分にも解決できない問題を書いてしまう。
解決できる問題を設定せよ、と僕は議論したが、
自分で物語世界を制御するための方法論だ。




物語は一種の精神治療ではないか、
と昔に書いた。
解離を勉強する上で、その確信はさらに高まった。
僕はセラピストでもなんでもないが、
物語の達人を目指す上で、
このようなことも知っておきたいと思う。

我々は何故物語を読むのか。
そして我々は何故物語を書くのか。


言ってみれば、現実逃避だ。
そしてそれは、よりよく現実へ対処するための方法論なのだ。

自分のためだけに書く物語は、いくら書いてもよい。
それであなた自身が逃避することが出来れば御の字だ。

しかし他人に発表する物語は、
正しく他人の現実逃避を助け、
正しく他人の現実へ帰ることを保証するべきである。

ぐだぐだのラスト、完結しないもの、
カタルシスのないもの。
それらは、物語の資格すらないのである。


最近、嵌まらせる作品群を称して「沼」という言い方がある。
俳優沼に嵌まる女子が多い。J沼もあるだろう。
俳優沼の出口はなさそうだ。
その俳優が引退するか、その人と結婚するか、その人のファンとして添い遂げるか。
出口のないその沼でひたすら稼ぐことは、
商売かも知れないが芸術ではないと思う。
芸能、とそれは昔からスレスレの言葉で言われている。


我々は沼をつくる。その沼からの出口もつくる。
そして沼を抜けたとき、新しい自分を発見するような、
沼をつくる。
それが物語である。
posted by おおおかとしひこ at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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