心の病の理論や解離やらをちょいちょい勉強している。
かつて、別の作品を書いたときに。
今回、多重人格(解離性同一障害)を面白おかしく書くために。
それは、心の迷路はあることを示すこと、
あったとしても抜け方があることを示すこと、
この二つの啓蒙という意味がある、と考えてのことだ。
(それはてんぐ探偵全体のテーマでもあることは、
薄々感じられているとは思う)
人は何故物語を書くのか。
人は何故物語を読むのか。
色々な面からの答えがあり、それらは重なりあうことが多い。
今回は、心の病の面からのおはなし。
現実逃避。
誰もが陥ることだ。
それは我々の心の機能、防衛のひとつである。
心が直面するのが辛いから、
柔らかく現実に対処するための方法だ。
現実逃避をすれば、
まあ現実に戻ってもなんとかなるわ、
という行為だ。
これが元に戻れなかったり、
やりすぎになったりするのが、解離という心の病らしい。
現実逃避を考えよう。
物語を読む行為は、現実逃避だ。
そこに浸る極上の時間は誰にも犯されぬ聖域である。
そこに現在の(辛い)自分はいなくて、
架空の自分が、架空の活躍をし架空の勝利をし架空のカタルシスと成長を得る。
そのことにより、
物語世界から帰ってきても、(辛い)現実に耐えうる力を持つ。
そのパワーが減ってきたら、物語世界にまた戻る。
旧作に戻ってもよし、新作を見てもよし。
(糞だったら腹立ったり)
物語を書く行為を考えよう。
もし自分が別の人間だったら。
主人公や敵やヒロインだったら。
それらが何やらをし、最終的に決着をつけるまで。
それは現実逃避である。
現実から逃げるのが目的かどうかは置いといて、
構想や執筆の間、あなたは現実を生きていない。
その世界の中にいる筈だ。
心の病であるところの解離は、
辛いこと(幼児期のトラウマや虐待など、異常に耐え難いもの)
に出会ったとき、現実逃避のさらにキツイやつで起こる。
現実に帰ってこれないほどの、
現実逃避のキツイやつが解離だと思うと、
解離への理解が深まると思う。
だから解離の治療は難しいと思う。
トラウマから逃げるために現在の状況をつくっているのに、
それに無理に直面させられる恐怖を考えれば、
今のほうが安全と考えるのは当然だ。
解離状態のほうが、トラウマに直面するより辛いことだ、
ということを本人が思わない限り、
トラウマへの直面はしないだろう。
有名なビリーミリガンの治療は10年以上かかったという。
(途中の中断など、アメリカはドラマチックすぎる。簡潔なまとめがWikiにもある)
数ヵ月では不可能だ。
数年ごしの現実逃避を、その揺りかごから外に出す行為だからだ。
仮に解離が「治った」としても、
その新しい自分が、現実の辛さに直面したとき、
生まれたてのように対処法を知らないから、
また精神を病むことがある。そのケアのほうが更に大事だ。
また、興味深いことに、
多重人格では、大抵極端な尖った性格の人格が生まれ、
しばしば絵が上手いとか音楽感覚がすごいとかの、
芸術的に尖った才能の持ち主がいるらしい。
更に興味深いことに、
統合後は、それらの芸術的才能は失われるらしいのだ。
本来人格から、尖る方向で分裂していくのだろうと予測される。
絵を描いたり音楽をつくる人は想像できる。
言葉が不自由で、自分とは何か上手く説明出来なくて、
それをするしか出来なくて、
人は絵を描いたり音楽をつくる(こともある)。
魂の叫びだ。
言語でない魂の表現だ。
これが正常な人、つまり言葉でコミュニケーション出来る人になると、
その才能が消失するのだという。
わざわざ絵を描いたりする必要がなくなる、
ということだろう。
人の心は、現実逃避をする。
芸術は、そのひとつだと思う。
味わうのも、つくるのも。
現実があまりに辛くて、
それを言葉にして伝えられなくて、
人は芸術をつくったり、味わうのだ。
「リア充は脚本を書かない」という僕の直感は、
それを裏付けしているように思う。
芸術家は、普通の人のような(リア充のような)コミュニケーションが出来ない。
その代わりの能力なのだ。
そしてそれを味わう人も、なんらかのリア充でないものを、
吸収してその波長を共有するのである。
解離に至る以前の緩衝剤が、現実逃避だとしたら、
人の心と芸術の関係がよくわかるのではないか。
物語とは、芸術のうち、
文字によるストーリーでそれを表現したものだ。
絵や音が補助的に使われるが、
本体は文章だ。
(映画は基本的にこれだが、
映像文体という、モンタージュで文章がわりになるものもある)
ストーリーとは、起承転結や三幕構成だ。
事件があり解決することだ。
解決することが重要だ。
解決しない場合、あるいは続く場合、
底無しの現実逃避になってしまう。
現実逃避は、それが終わり、現実へ帰るときに意味がある。
逃避に行きっぱなしは、精神異常と言われる。
昨今のぐだぐだの物語は、
逃避し続けたい人々の、心の反映だ。
作者が悪い。
正しく逃避世界から現実へ帰る儀式を踏ませていない。
だから現実逃避の世界に住みっぱなしになる。
それじゃ現実世界を生きられないから、
ヘンテコなヲタクをばんばん生み出すことになってゆく。
我々は物語を書く者として、
我々自身が逃避すること、逃避した世界から現実へ帰ってくること、
このふたつを達成する義務がある。
そうでなければ正しい現実逃避にならないからだ。
出来得れば、ただの時間潰しではなく、
辛い現実へ帰るときに、勇気や知恵の実をお土産に持たせたい。
それがテーマであることは、分かっている筈だ。
物語を書くのが未熟な者は、
自分にも解決できない問題を書いてしまう。
解決できる問題を設定せよ、と僕は議論したが、
自分で物語世界を制御するための方法論だ。
物語は一種の精神治療ではないか、
と昔に書いた。
解離を勉強する上で、その確信はさらに高まった。
僕はセラピストでもなんでもないが、
物語の達人を目指す上で、
このようなことも知っておきたいと思う。
我々は何故物語を読むのか。
そして我々は何故物語を書くのか。
言ってみれば、現実逃避だ。
そしてそれは、よりよく現実へ対処するための方法論なのだ。
自分のためだけに書く物語は、いくら書いてもよい。
それであなた自身が逃避することが出来れば御の字だ。
しかし他人に発表する物語は、
正しく他人の現実逃避を助け、
正しく他人の現実へ帰ることを保証するべきである。
ぐだぐだのラスト、完結しないもの、
カタルシスのないもの。
それらは、物語の資格すらないのである。
最近、嵌まらせる作品群を称して「沼」という言い方がある。
俳優沼に嵌まる女子が多い。J沼もあるだろう。
俳優沼の出口はなさそうだ。
その俳優が引退するか、その人と結婚するか、その人のファンとして添い遂げるか。
出口のないその沼でひたすら稼ぐことは、
商売かも知れないが芸術ではないと思う。
芸能、とそれは昔からスレスレの言葉で言われている。
我々は沼をつくる。その沼からの出口もつくる。
そして沼を抜けたとき、新しい自分を発見するような、
沼をつくる。
それが物語である。
2015年01月25日
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