2015年01月25日

【幻魔のはなし】コメントが長過ぎるので、記事形式で続けます。

でん様、長文コメントありがとうございます。
やはり平井和正は、我々に長文を書かざるを得ない、何かを残して行ったのだと思います。

HKヒストリーはざっと読みました。
「ひらりん」なる軽みのある人格が、統合をうまく誘導したのではないかなあ、
と予想します。
「ハルマゲドン」以降の、幻魔ほどどろっとしてない感じは、
その軽みへのステップなのかも知れませんね。
(「幻魔大戦」「ハルマゲドン」「ハルマゲドンの少女」までで挫折しました。
「真幻魔」行こうとして、またしても失踪未完と聞いて手を出さず)

以下、個人のプライベートでもあるので、つづきへ。



僕が一番知りたいのは、
結局、「東丈は何故消えたのか?」だけなんですよね。
(これ、中学生の時からの疑問)

これを「桐島、部活やめるってよ」の桐島のように、
(その元ネタの「台風クラブ」の台風のように)
「ゴドーを待ちながら」のゴドーのように、
物語上のマクガフィンとするには、あまりに東丈は突出した存在で、
しかも「いなくなったあとが本題」では結局なかったのは、なんでか?
という、物語の構成上の根本的な謎も含むのです。
(これ、大人になってからの疑問)


このブログは脚本家を目指す人を主に対象にしていて、
作劇の話や脚本論を延々としています。

いくら言霊とはいえ、
破綻した構成をつくったのは、なんでだろう?
何をしようとして、どう失敗したのか?
その原因はなにか?

いやいやいや、これは初心者にもよくある、作劇のミスだぞ、
ということに、僕の思考は収斂しかかっています。


リンクのあとがきを読み込んだ上で、やはり、
「現実の体験の失敗を、創作で再構築してリベンジしようとした、
が失敗した」
という線が妥当な気がします。



以下、個人名ぼかした、「現実にあったこと」の僕の推測:

彼女は男たちにちやほやされていた、今で言うオタサーの姫だった。

彼は彼女に恋し、蜜月をすごす。
彼女の「理想」に心酔し骨を砕きもした。

ところが、幻滅する出来事が。
(オタサーでよくあるのは、彼女がメンバーの全員とやっていた、とかね。
名誉毀損かなあと思って本文からはぶきました)

→人間関係なども思う所あり、脱会。


宗教団体を批判するため(これは表向き)、
その傷を癒すため(これは無意識の本心)、
幻魔をかきはじめる。

ニューヨーク戦まではただのノベライズのつもりだったが、
GENKEN立ち上げ後、憑依がはじまる。

つまり、意識を無意識が凌駕した。


東丈のモデルは、彼の恋した頃の「理想の」彼女だ。
だから覚醒後の前半戦は唸るように筆が走る。

中盤、GENKENの面子が揃ってきて、
いよいよかつての教団のシミュレートに近くなる。
ここまでは順調だった。

この時「理想の教祖」は、どうやって「悲劇」を回避するのか。
(悲劇とは、分裂劇などをシミュレートしようとしていたかも知れない)

出来なかった。


「理想の教祖」は、彼の想像の範囲を越えるような、
凄い解決はしてくれなかった。

だから失踪したのだ。

あとのぐだぐだは、「彼女」を迷わせ、堕落させた、
無能な人々批判。
それは恨みつらみまたは皮肉に満ち、
それを再統合しようと郁江ががんばるが、
再統合しきれず、挫折。




郁江が「幻魔の郁江」であることは知ってました。
であろうがなかろうが、郁江と高鳥の関係は、
僕は「自傷行為」ではないかと思うのです。

東丈=「理想の彼女」人格から分裂した郁江(第二の受肉した彼女)を、
貶めながらもまだ愛せるのかと問う行為。
(自分自身への問い、または読者も巻き込む問い。
答え=「それでも愛している」が欲しいから傷つける)

僕は、大角美和子は、
「現実の(あるいは、幻滅したあとの等身大以下に歪められた)」
彼女ではないかなあと感じます。

つまり、理想の彼女と現実の彼女に、作中で分裂したのではないかなあと。
(天使の面と悪魔の面みたいな分りやすい形ではなく)


何故人は物語を書くのか、
についての最新の僕の考えのひとつは、
「物語の正体」に書いているので参考までに。


「現実で上手くいかなかったことを、
小説の中で上手く行かせようとして、
やっぱり上手くいかなかった」
まとめるとこういうことかなあ。

これは物語を書く初心者がよく陥るミスです。
(たとえるなら、振られた男が理想の彼女と物語の中ではうまく行こうとして、
嘘くさい成功物語を書くか、リアリティのある成功が描けなくて挫折する)


つまり、安直に言えば、
「代償行為を作中でやろうとして、出来なかった」
が東丈失踪の原因だった、
と僕は思うのです。


平井氏ですらこのミスを犯すほど、
彼の苦悩は(信仰も含めて)凄まじかったのだと思います。



またまた的を外れてるかも知れませんが。

「地球樹の女神」が、まったく幻魔と関係なかったとしても
(wikiによればあとあと繋がるっぽいですが)、
この統合の経験が成功体験となって、
幻魔世界の統合に寄与したのだと考えることが出来そうですね。

また調べたら、角川とも徳間ともトラブルを起こして版権を引き上げているみたいで。
ちゃんとした全集が出るのは電子なのかしら。
posted by おおおかとしひこ at 21:55| Comment(3) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
うーん、考えるほどに、最初の考察が甘すぎた、正直私の分析能力を超えてる領域に入ってるな、という感じなのですが、少しだけ続けて打ち止めにします。


>物語上のマクガフィンとするには、あまりに東丈は突出した存在で、
>しかも「いなくなったあとが本題」では結局なかったのは、なんでか?


ここを読んで『幻魔大戦』の東丈失踪後にフォーカスしすぎてた、『真幻魔大戦』への考察が甘かったと気が付きました。
『真幻魔大戦』において失踪後は、ほぼ主役が杉村優里/クロノスで「いなくなったあとが本題」になってますね。
なおかつタイムリープ先で東丈の前世、役の小角が登場し、破滅世界編で明言されぬものの東三千子の出産・東丈の誕生も書かれて“失踪”がちゃんと機能してるとさえ言えます。


>つまり、意識を無意識が凌駕した。

>東丈のモデルは、彼の恋した頃の「理想の」彼女だ

>郁江が「幻魔の郁江」であることは知ってました。
>であろうがなかろうが、郁江と高鳥の関係は、
>僕は「自傷行為」ではないかと思うのです。


やはりこの辺が個人的に「考察として筋道は立ってるし説得力もあるんだけど、やはり何か違う」と感じる部分です。

そもそも高橋佳子氏と関わった経験が作中にどう反映されているかという点で、特定の誰かに仮託されてるのじゃ無く全体に分散して割り振られています。後書き等から考察できる範囲でも、教団内の立場としては土屋薫に、叱責時の経験は河合康夫に、といった感じにです。
『真幻魔大戦』で“CRAの大角美和子”に反映されてる部分があるのは間違いないと思うのですが、作中での比重で言えばゲストの脇役でしかないので、あれもあくまで一部の投影なのでしょう。
ネット上で散見する高橋佳子氏の当時の行状からすると、高鳥への投影もあるのでは、とも考えます。
一方で真幻魔の井沢郁江や、破滅世界編で登場する前世のソル王女には全くカリスマの属性が無く、なんというか「重しを外されてる」感があります。(あとつい忘れがちなんですが、東丈失踪以前の井沢郁江に高橋佳子氏が投影されてるとは全く感じられません。)
順番としては「モデルとして造形した」ではなく、独立したキャラとして立った後、流れの中で役割として割り振られたわけで、どこかで“イメージとして用いる部分はあるがモデルではない”と書かれていたのはそういうことかな、と。

まあここらは大岡さんの考察の流れと大差ないですが、“意識を無意識が凌駕”という点で、大岡さんの表現を借りるなら「理性と言霊」のそれぞれの領域はかなり考察と違ってるのじゃないかという気がします。
あくまで私個人の感覚でしかないですが、“意識”が経験の投影と癒しで“無意識”は立てられたキャラ、大岡さんの考察とは逆じゃないかと感じます。
東丈失踪は“理想の高橋佳子”の役を割り振られること、“無意識を意識が凌駕”しようとした結果、「理性と言霊」がコンフリクトしてそれを拒否した、それが「プレシャーに負けた」ということなのでは…と今は考えつつあります。
なんにせよメタな話ですが。


>これは物語を書く初心者がよく陥るミスです。
>(たとえるなら、振られた男が理想の彼女と物語の中ではうまく行こうとして、
>嘘くさい成功物語を書くか、リアリティのある成功が描けなくて挫折する)


思えば大岡さんの書く「物語を書く初心者がよく陥るミス」「代償行為を作品でやる」こそが作家・平井和正の原点にして全力で追求してきた道です。
中学二年の時に片思いの初恋の相手、後藤由紀子をヒロインにして書いた『消えたX』と、数十年後に再び挑んだ『地球樹の女神』が代表格で、しかもそれを全く隠さず作中でも後書きでも書いてます(本人より魅力的になったとも)。
だからそれは平井和正にとってはミスでもなんでもない。
『地球樹の女神』の後書き、『書きたかった小説のこと』より一部引用します。

“とにもかくにも、キャラクターは絶対に魅力的でなければならない、と信じ込んでいる。食傷するまで、これでもかこれでもか、とイメージアップに努める。”
“ストーリー展開の妙よりも、キャラクターの印象を深めることに全力を投入する。”
“登場人物たちが、本当に作中で生きてさえいれば、物語などは自然に成立するものだ、と私は信じているのだが、中学二年生の少年作家である過去の私もまさしく同じ意見を持ち合わせていたらしい。”
“作家は意識するしないにかかわらず、自己を必ず作品に投影するものだ。作家の内的宇宙はことごとく作品に顕れる。わたしの経験した非苦は四騎忍の内的宇宙に結実しているが、少年作家の私には、それを敢行する勇気が欠けていた。それが若書きというものであろう。作家の創造とは、すべて自我をあからさまにさらけ出すことであって、僅かでも自分を取り繕う偽善が残っていてはならないのだ。その結果、必然的に作品は本体性を失うからだ。”

ただ結果として『地球樹の女神』以降の作品で、キャラの魅力は比類ないけどストーリーの方は「うーん…ファン以外には薦められないなあ…」と顕著に感じることが多々あったのも事実ですが。


なにか散漫かつ支離滅裂な感じになってしまいました。
やはりdeepシリーズを読まねば始まらない、いや終われないということかもしれません。

なお、版権がどうなってるのか知りませんが、『幻魔大戦』のKindle版は角川書店からですね。

http://www.amazon.co.jp/dp/B00QWGZ718/ref=cm_sw_r_tw_dp_WiDXub0YECWRA
Posted by でん at 2015年01月26日 20:16
でん様、長々とありがとうございました。
まさか、30年前に魂を奪われその後ずっと引っ掛かっていたことに、ここまで議論が出来るとは思いませんでした。

最初の多重人格の話に戻りますが、多重人格とは、「コレジャナイ」って本人が思えばどんどん分裂していくんですよね。
初期の郁江は、ひょっとすると出会った頃の、あるいはテープレコーダーの中の(出会う前のもっと若い)佳子だったのかなあ、とか思っています。「佳子」自体が多重人格化していったというべきか。
まあ、誰が誰か対応表つくることは正解探しではないと思うのでどうでもいいっちゃあいいのですが。

平井氏の創作の仕方の引用で、全てが氷解しました。
このブログでの脚本の作劇法の、真反対のやり方なんですよ。
僕はプロットを最も重視していて、それが完璧に出来てから言霊を降ろすことを薦めているのです。
僕は幻魔に心酔して、凄いストーリーを作ろうとしては失敗しながら、
生涯をかけて、真反対の(ちゃんと完結する)ストーリーの作り方を編み出してきたのかなあ、
と、なかなか感慨深かったです。

結局、幻魔の凄さは、ストーリーの凄さじゃなくて、「情念の濃さ」だったのかなあ、と今なら分析出来そうです。

長々とありがとうございました。
deepシリーズ、思ったより巻数が多くて、未読のウルフガイとどっちにしようか迷っています。
(アダルトウルフガイもパラレルかと思いきや、違う犬神明だとう? 全く困った人だ…)
Posted by 大岡俊彦 at 2015年01月27日 02:24
平井和正関連の記事をアップしました。
お時間のある時にでも、覘いてくださいませ。
(古い雑誌からのスキャンで、汚い部分もあり、読みづらいですが。
スマホでは無理かも。)
違法アップに当たるかもしれませんが、
もう人の目に触れることもないと思われますので追悼の気持ちを込めて。

このブログの読者の方で平井ファンがいらっしゃいましたら、
どうぞ覘いてみてくださいませ。

http://blog.livedoor.jp/riofunk/archives/1018894815.html
Posted by スタンドバイミー at 2015年02月07日 10:30
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