言霊とは、故平井和正の言い方で、
自動書記状態の際に、どこかから降りてくるものだ。
この状態になれば手が勝手に動く。
或いは、イメージが湧いて湧いて、記録するのに精一杯な状態になる。
これは作家なら誰もが経験する瞬間であり、
スポーツ選手のゾーンのようなものだと思っている。
つまり、コントロールできる。
御神託や狐のような怪しげなものに頼らず、
新興宗教にも頼らず、
これは制御出来る。
制御するためには、言霊に任せる範囲と、
言霊に任せずに理性で制御する範囲を決めることだ。
その妥当な範囲を書いて行く。
1. アイデアは言霊に任せよ。分析は理性で。
天から降ってくるアイデアは、言霊だと思おう。
どんなに分析したって、
どんなにマーケティングしたって、
世の中をひっくり返す「新しい」アイデアは出ない。
自由で常識に囚われない心だけが新しいものを生む。
経験的コツは、
隅から隅まで死ぬほど考えたのち、ぐっすり寝ること。
起きた時に、何かが出ることが多い。
寝る代わりに散歩や風呂もよい。
机に座って考えるモードから、別のモードに移行したときに出やすい。
僕の仮説だが、脳は全て使われる訳ではなく一部が眠っている。
それが別のモードになったときに起きて、
寝て起きた時と同じような、
記憶の整理やまぜこぜが起こるのだと思う。
あとは、何日も何週間もずっと気にしていると、
日常で必要なものがふっと入ってくることがある。
カクテルパーティー効果といって、
立食パーティーのようなざわざわしたところでも自分の名前を呼ばれたら聞こえるように、
脳には選択的情報入力がある。
そのフィルターをつくるために、日々考えるのだ。
アイデアは全てメモること。
それを理性で分析し、秩序立てていくこと。
2. プロットやテーマは理性で。言霊に任せるな。
プロットや骨格に至るものは、理性で組め。
因果関係を楽しむのは理性である。
例えば「デスノート」のキラvsLの緻密なチェスのようなバトルは、
穴がないように理性で構築されたバトルである。
ここに気まぐれな言霊の出番はない。
(ライトの敗北は、唯一感情的になったことだ。
感情的な者はプロットの敗者である)
3. 会話は言霊に任せる。キャラ構築は理性と言霊。配置は理性。
どのシーンに誰が何のためにいるのかは、
プロットの範疇だ。
これから何をする目的で、コンフリクトやゴールが何かは、
プロットで確定されているべきである。
行き当たりばったりの言霊に任せると必ずだめになる。
また、キャラ設定は理性でつくる部分もあるし、
言霊がアイデアを持ってくる場合もある。
ガチガチに理屈でつくっても詰まらないし、
行き当たりばったりでは全員のアンサンブルが美しくない。
(機能として足りないか重複がある)
どちらかに片寄るとダメだと思う。
それらに比べて、会話は言霊だ。
すべての登場人物の憑依として、
会話を書くのがよい。
目的、性格や背景などを理性でセットしたら、
その人物になりきるまで、
つまり言霊が降りるまで、
何度もそのキャラの真似をするのである。
物真似がいつの間にか真実になったときが、
お芝居というものだ。
しかし、憑依はシーンの頭から終わりまでだ。
そのシーンの終わりで理性を取り戻す。
シーンの目的を果たしていないなら、リテイクを出すとよい。
シーンを書くときは、芝居を撮る映画と同じやり方で、
何度かやってみるのもよい。
(それらを編集してワンシーンをつくるのもよい)
4. 途中のヒラメキ
プロットから外れるが、そちらの方が面白そうだ、
と思うときが迷い時だ。
大抵はいい思いつきなのだが、
計画を台無しにすることもあるからだ。
書けるまで書いてみて、行き詰まったら理性にバトンを渡し、
プロットの再検討をするのがよいだろう。
これらの例でわかるとおり、
理性と言霊にはそれぞれ別の役割があり、
決してどちらかで書ききることは出来ない。
左脳と右脳の関係のように、
それらは補完しあうと思う。
これはお前の領分、ということが分かっていれば、
暴走したときの目安にもなる。
暴走するのは言霊だけではない。
理屈優先で間違う、理性の暴走もある。
(ある程度才能があるはずの役者を、
ごり押しキャスティングとごり押し脚本で、
結果的になんの魅力もない作品に仕立ててしまうことなど)
その時は子供のように「へんだよそれ」と言うべきだ。
理屈で台詞を直すのもよくない。
大抵迸るリズムが駄目になり、
命溢れるやり取りが死ぬ。
言霊の領域を決めよう。
理性で制御しよう。
制御といっても、手足を縛って思い通りに動かすことではなく、
ここからここまでの範囲では自由に暴れてよい、
と言霊に任せることだ。
そうすると最高のパフォーマンスをしてくれる。
はみ出してるかどうかだけチェックして、
修正を加えてやるとよい。
さて、言霊などとオカルト的に言っているが、
僕はこれは無意識の一形態ではないかと思っている。
夢を見ることに近いのではないかと考えている。
深層心理や思っても見なかったことが湧いて出たりする。
だから、象徴とかシャドウとかアーキタイプとかの、
心理学用語がそのまま使えるのではないか、
と思っている。
つまり、執筆とは、醒めながら見る夢のことだ。
白昼夢のような幻覚ではなく、
意識的に制御しながら見る夢のことである。
2015年01月26日
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大岡さんと同世代、女性です。ジャンプ、買ってました。風魔のDVD全巻も持っています。
大岡さんの脚本論、本当に面白く、興味深く拝読しています。
私は脚本家を目指している訳ではありませんが、子供の頃から本(物語)が好きで、現在も文学と関係ある仕事をしています。
この記事のラスト3行、私もきっとそうに違いないと思っていたので、何だか嬉しくなり、こうしてコメントさせて頂いています。
私の敬愛するある作家も「小説を書くという行為は、目覚めたまま夢を見ることだ」という意味のことを言っていました。
私自身は創作者ではありませんが、創作に携わっている方が創作の秘密を明かして下さるのを伺っていると、本当にわくわくします。
貴重なお話をいつもありがとうございます。今後の御活躍を楽しみにしております。
同世代ですか。俺まだ大学生の気分だけど、お互いいい歳になってしまったものですなあ。
その作家さんが同じ意味で夢という言葉を使ったかどうか測りかねますが(夢って多義性があるし、素敵な言葉に聞こえるから使いやすいし)、
似たような意味だとしたら、みんな大なり小なり感じてるのかなあと思います。
これからも応援宜しくお願いします。
まずは東宝内の在庫を一掃させて、
風魔DVD第二版をつくらせ、第二版つくるなら第二期やる?なんて言わせることから。
あるいは出版の編集者にお知り合いがいるなら、
てんぐ探偵出版の話なぞ。或いはこの脚本論出版でもいいです。
(具体的に色々あるやんけ!)