小説が一人称形だとして。
両者は書くポイントが違うのだ。
それが内容そのものの違いにもなってくると思う。
一人称は、結局インナースペースがメイン舞台である。
誰かといようが、
どんな状況や問題が主人公の外側で起ころうが、
「主人公の中で起こったこと」が主な出来事だ。
一方三人称は、
「誰かと誰かの間で起こったこと」が主な出来事だ。
例えば「凄い恋愛」という題材で比較してみよう。
「凄い恋愛を一人称で書く」ということは、
その主人公の気持ちの凄さ、経験して頭の中で考えた凄さを書くとよい。
たとえば同僚とセックスした、という日常によくある題材だとしても、
その人の中で起こった気持ちが物凄ければ、それは一人称小説になる。
天地がひっくり返り、価値観が逆転し、たぎり迸る情熱を綴ればよいからだ。
「凄い恋愛を三人称で書く」のは、
人と人の間で起こった凄いことを書く。
例えば王族や芸能人との恋や、3Pなどである。
どんなに気持ちの中で凄い感情が渦巻いたとしても、
それを「見る」ことは出来ないので、
「見た目が凄い」ことを書くのである。
小説の上手さは、一見大したことないことでも、内面をいかに物凄く書くか、
映画の上手さは、一見大したことない内面でも、いかに物凄く見せるかだ。
(小説では例えば森見登美彦、話題の平井和正。
映画ではハッタリ演出の、ジョン・ウー、ウォン・カーワイ、
デビッド・フィンチャー、クリストファー・ノーラン、
岩井俊二の真似をするときの行定勲などを上げることができる。
勿論、中身とプロットが噛み合えば、彼らの持ち味はフルスロットルだが、
空回りしている様を想像するとよくわかる)
小説が映画化出来ない理由は、
「同僚とのセックス」の素晴らしさを、
絵で表すと地味になるからだ。
逆に映画のノベライズが詰まらない理由は、
見た目の凄い恋愛の、中身の感情が対して凄くないからだ。
扱うものが、両者で異なるのである。
一人称の舞台はインナースペースだ。
三人称の舞台はアウタースペースだ。
(アウタースペースという言葉はないかもだが、
文脈で察してください。インナースペースの逆の、自分の外の世界)
脚本を書くという行為は、
アウタースペースで面白おかしいことを書くという行為である。
極端に言えば、インナースペースで大したことがなくても、
傑作をつくることは可能だ。
主人公が歴史的に物凄いことを考えたり感じる必要はない。
主人公が歴史的に物凄いシチュエーションで、
歴史的に物凄い行動をすればよいのである。
(例:ジュラシック・パーク、バック・トゥ・ザ・フューチャー)
一方、一人称小説では、
主人公が歴史的に物凄いシチュエーションと行動をする必要はない。
主人公が歴史的に物凄いことを考えたり感じる必要があるのだ。
(例:未読だが映画を見る限り、ノルウェイの森)
極論をしている。
三人称小説というのは、あまりメジャーじゃないと思うので、
小説といえばデフォルトで一人称を思い浮かべてしまうのだが。
三人称小説に関しては脚本と同様かも知れない。
逆側から見てみる。
小説へのツッコミは、
「お前物凄いこと考えてるけど、大したことしてないやん」であり、
映画へのツッコミは、
「お前物凄いことしたけど、大したこと考えてないやんけ」だ。
完璧でないものにはこのような不備が出やすい、
逆に言えば、第一優先度が真逆だということだ。
もう少しうまく言うと、
小説は内面の旅に、行動の旅を重ねる。
映画は行動の旅に、内面の旅を重ねる。
両者は裏返しの関係である。
2015年01月27日
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