2015年01月27日

小説は内面の旅、映画は行動の旅

小説が一人称形だとして。

両者は書くポイントが違うのだ。
それが内容そのものの違いにもなってくると思う。



一人称は、結局インナースペースがメイン舞台である。
誰かといようが、
どんな状況や問題が主人公の外側で起ころうが、
「主人公の中で起こったこと」が主な出来事だ。

一方三人称は、
「誰かと誰かの間で起こったこと」が主な出来事だ。


例えば「凄い恋愛」という題材で比較してみよう。

「凄い恋愛を一人称で書く」ということは、
その主人公の気持ちの凄さ、経験して頭の中で考えた凄さを書くとよい。
たとえば同僚とセックスした、という日常によくある題材だとしても、
その人の中で起こった気持ちが物凄ければ、それは一人称小説になる。
天地がひっくり返り、価値観が逆転し、たぎり迸る情熱を綴ればよいからだ。

「凄い恋愛を三人称で書く」のは、
人と人の間で起こった凄いことを書く。
例えば王族や芸能人との恋や、3Pなどである。
どんなに気持ちの中で凄い感情が渦巻いたとしても、
それを「見る」ことは出来ないので、
「見た目が凄い」ことを書くのである。

小説の上手さは、一見大したことないことでも、内面をいかに物凄く書くか、
映画の上手さは、一見大したことない内面でも、いかに物凄く見せるかだ。
(小説では例えば森見登美彦、話題の平井和正。
映画ではハッタリ演出の、ジョン・ウー、ウォン・カーワイ、
デビッド・フィンチャー、クリストファー・ノーラン、
岩井俊二の真似をするときの行定勲などを上げることができる。
勿論、中身とプロットが噛み合えば、彼らの持ち味はフルスロットルだが、
空回りしている様を想像するとよくわかる)


小説が映画化出来ない理由は、
「同僚とのセックス」の素晴らしさを、
絵で表すと地味になるからだ。

逆に映画のノベライズが詰まらない理由は、
見た目の凄い恋愛の、中身の感情が対して凄くないからだ。


扱うものが、両者で異なるのである。


一人称の舞台はインナースペースだ。
三人称の舞台はアウタースペースだ。
(アウタースペースという言葉はないかもだが、
文脈で察してください。インナースペースの逆の、自分の外の世界)

脚本を書くという行為は、
アウタースペースで面白おかしいことを書くという行為である。
極端に言えば、インナースペースで大したことがなくても、
傑作をつくることは可能だ。
主人公が歴史的に物凄いことを考えたり感じる必要はない。
主人公が歴史的に物凄いシチュエーションで、
歴史的に物凄い行動をすればよいのである。
(例:ジュラシック・パーク、バック・トゥ・ザ・フューチャー)

一方、一人称小説では、
主人公が歴史的に物凄いシチュエーションと行動をする必要はない。
主人公が歴史的に物凄いことを考えたり感じる必要があるのだ。
(例:未読だが映画を見る限り、ノルウェイの森)

極論をしている。

三人称小説というのは、あまりメジャーじゃないと思うので、
小説といえばデフォルトで一人称を思い浮かべてしまうのだが。
三人称小説に関しては脚本と同様かも知れない。


逆側から見てみる。

小説へのツッコミは、
「お前物凄いこと考えてるけど、大したことしてないやん」であり、
映画へのツッコミは、
「お前物凄いことしたけど、大したこと考えてないやんけ」だ。

完璧でないものにはこのような不備が出やすい、
逆に言えば、第一優先度が真逆だということだ。



もう少しうまく言うと、
小説は内面の旅に、行動の旅を重ねる。
映画は行動の旅に、内面の旅を重ねる。

両者は裏返しの関係である。
posted by おおおかとしひこ at 12:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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