というのはあるだろうか、
と思考実験的に考えてみる。
主観カメラがずっと続き、
発言はマイクで拾い、
カメラ脇から手や足がたまに見えるタイプだ。
(ハメ撮りなら第三の足も見えるね)
しかしそれでは一人称の最大の舞台、
インナースペースを描くことが出来ないから、
思考は例えば字幕で出す、
などが考えられる。
またまたAVを例に出すが、
このスタイルはAVで見ることが出来る。
今回の設定を説明し、
なおかつ撮る人の思いなどを綴るタイプだ。
(カンパニー松尾とかはよくやるよね)
汚い男の外面は需要がないから、
このようなスタイルとの相性がよい。
あるいは、パソコンやスマホの画面を延々写して、
それで物語を構築するタイプもあり得る。
映像チャットの画面だけで構成した実験映画があったような気がする。
メールなら、森田芳光の「ハル」があった。
往復書簡ものを、メール文字を画面に字幕として乗っける、
当時としては斬新な手法だったが、
それを朗読しているときは、
一人称である。
一人称が往復するごとに気持ちが高まって行き、
ついに三人称、つまり会うという話に構成されていた。
POVものは一人称カメラでありながら、
内面を語らないため、一人称的ではない。
これらのことを総合すると、
インナースペースのことは、字幕で出すか、
ナレーションで語る、ということが出来そうだ。
ナレーションで内面を語らせまくった失敗作、
「私の優しくない先輩」は一見の価値がある。
寒い。全盛期の川島海荷(とはんにゃ金田)をもってしても寒い。
何故か。
三人称スタイルの映像だからだ。
三人称という客観的なものに、
一人称であるナレーションを乗っけているからだ。
客観的なことに絵で答えが出ているのに、
主観的にこねくりまわすからである。
そのズレが寒いのだ。
まだ未チェックだが、「脳内ポイズンベリー」もそのような寒さとどう戦っているか、
見ものである。そもそも痛さの自虐というムードで押しているかもだが。
ところで。
三人称スタイルで描かれたものは、
いつの間にか一人称になっている。
感情移入によってだ。
だから、一人称スタイルの映画は、つくる必要がないのだ。
字幕で延々とインナースペースを描くスタイルが、
今のところ一人称スタイル映像として妥当そうだ。
しかし、それならば小説のほうが楽だろう。
結局、きちんとつくられた三人称スタイルは、
映画においては万能なのだ。
今、日本映画が弱体しつつあるのは、
一人称のインナースペースが膨らみすぎて、
他者との関係が弱くなっているからかも知れない。
と、いうことで、インナースペースを三人称的に具現化する物語、
てんぐ探偵、もうすぐ第五集完成します。金曜夜かな。
2015年01月29日
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