ダチョウ倶楽部のこのネタは、
時間軸でものを語ることの本質を示している。
つまり、
語られた要素はのちに実現する、
ということだ。
リライトの基準で、
「ストーリーに必要なことだけを書く」という原則があるが、
それを見極めるのはなかなか難しい。
そんなとき、このダチョウ倶楽部の原則を思い出すとよい。
あとで押さないのなら、「押すなよ!」は、
カットできるのだ。
勿論、カットして情緒がなくなったり、
なんだかいい感じだったニュアンスがなくなることは残念だ。
が、もしカットしなければならない状況ならば、
涙を飲んで全てを一端刈り込んでみることをオススメする。
すべての、あとで使わない表現を、
風呂に入った猫のように、ふわふわの毛のない状態にしてみるのだ。
それで余計な情緒のない全体像を確認したら、
ふわふわの毛をまた戻していってもよい。
その時に、
どこがあとで使う「押すなよ!」に当たるところで、
どこがあとで使わない部分か分かるだろう。
あとで使わない部分は、
実は「あとで使うかも」というミスリードを起こすことがある。
作者はあとで使うつもりはなく、
今その場の情緒を大事に書いた、
あるいは無意識で書いた部分かも知れないが、
それが「なんらかの伏線」、つまり、あとで「押す」があるのだろうと期待してしまう。
それがないとガッカリする。
期待してたのにと。
意図したものなら構わないが、
大抵の場合それは無意識で気づかないほうが多いと思う。
本当に、余計なところはないだろうか。
台詞の一語一語、ト書きの一語一語単位で、
それはあったりする。
あとで使わないから、という理由でそれを切ることは合理的である。
あなたのシナリオで、どこが「押すなよ!」とダチョウ倶楽部みたいに言っているだろう。
それに対応する、「押す」場面はどこだろう。
それは伏線とその解消の関係になっていることに、気づくとよい。
ただ「押すなよ!」と言って、
その後一度もそれに触れないのなら、
それはカットしてもよい部分である。
2015年01月30日
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