創作に慣れることはとても大事だ。
色々やらなければならないことを、
マスターした上で、使いこなすことが大事だ。
しかし慣れは惰性に繋がる。
今回は、慣れてなかった頃の話を。
慣れてない頃の作品を引っ張り出してこよう。
粗削りで、今見れば恥ずかしくなるようなものだろう。
しかし、それは、本気でつくったものほど、
今の自分には作れない、不思議な魅力があるというものだ。
それは、ビギナーズラックが起こったからである。
ビギナーズラックはなぜ起こるか。
右も左も分からないから、
分からないなりに、無意識で一番勘所を押さえるのである。
たとえ技術が拙劣だったとしても、
勘所はそれなりに押さえられているから、
人の心を打つのだ。
無意識に勘所を押さえられたものが、
ビギナーズラックを起こしたものとして残るのである。
僕がはじめて撮った映画には、
その異様なパワーがあったと思う。
漫画はかいてたし、演劇の台本も書いてたから、
作劇の力はそれなりにあったが、
以後あの高揚感はなかなかない。
(多分、次にそれを得たのは風魔である)
多分、ビギナーズラックだ。
風魔もビギナーズラックかも知れない。
ドラマを撮るのははじめてだ。
自分が死ぬほど好きだったものを実写化するのもはじめてだった。
詳しく分からないからこそ、
分からないなりに一番の勘所を必死でおさえ、
それが成功したときに成功作品になるのだと思う。
(風魔で言えば、主人公小次郎への感情移入かな)
このようなビギナーズラックを起こす方法がある。
慣れてないことをすることである。
よく知らない世界のことを書いたり、
普段やらない技法を試したり、
はじめての人と仕事をすることだ。
それが分からなく、不安だからこそ、
人は生存本能的に、最も勘所を抑え、生き延びようとする。
それは意識ではどうしようもない、
言葉に出来ない感覚を使うかんじだ。
僕がてんぐ探偵という小説を、
普段本も読まないのにいきなり書き始めたのは、
今思えばそのような冒険だったように思う。
探り探りやってきて、ようやく何か掴めたかも知れない。
僕は小説家になりたい訳ではないからこそ、
小説というものを違う面から見れた気がする。
それが小説家どっぷりの人たちから見て、新鮮だとよいのだが。
慣れてないことをしよう。
苦労しよう。
そのことで、自分のいきる力のようなものが必死で目覚めて、
ビギナーズラックを起こすことがある。
例えば一人旅は、その連続みたいなものだ。
余裕があれば、必ず新しいことに挑戦する、
と決めてかかるのもよい。
失敗しても、プロット段階なら傷も浅い。
プロットは、だから冒険の場でもある。
2015年02月01日
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