デウス・エクス・マキナになるからだ。
(これに関しては議論したような気が)
夢落ちをつい書いてしまう、
作者のだめな心理を追ってみよう。
落ちというのは、パズルの解に似ている。
最初に出された条件だけを頼りに、
展開し、解決することに似ている。
デウス・エクス・マキナは、
その最初の前提にないものを投入してしまうことだ。
前回の料理で例えるなら、
「今日は彼女のために料理をつくる」
という前提から話をはじめて、
途中でうまくいかなくて、
「ピザの出前をとる」
という落ちにしてしまうことだ。
前提にないことをしてはいけない。
逆に、伏線を前提に忍ばせるのだ。
しかも、ばれないように、堂々と。
ばれないほど、堂々としてるほど、
それは巧みなどんでん返しと呼ばれる。
あの時のあれを使うんだろ?やっぱり!
は、どんでん返しとしては上手ではないが、
どんでん返しではない、驚き目的ではない、
通常の展開ならば、基本通りである。
デウス・エクス・マキナに頼る作者の心理とは、
「失敗した」である。
要するに、ここまで来て、うまくいかないことに気づいたのだ。
ひょっとすると、もう少し前から薄々気づいていて、
色々と足掻いたけど、やっぱりダメだ、
と観念したのかも知れない。
前提から念入りに仕込んで、
展開を経てついに解き終えたパズルの面白さを、
やっぱ出来てなかった、のである。
材料を買い、仕込んで調理するうちに、
どうやっても不味いことに、気づいたのである。
頭から書いてきて、展開も謎だらけで引っ張ってきたのに、
その解決が思いつかず、
夢でした、ああよかったね、
とやってしまうのだ。
それは作者の心理的には、失敗作を、
うまくまとめたような気になるが、
端から見たら、大失敗作なのだ。
プロになってから、一度だけ夢落ちをやったことがある。
若いとき、ショートフィルムCMを100万でつくろう、なんて流れのときだ。
僕が書いたのではなく、某人が書いたシナリオがあって、
これを監督してくださいと依頼されたパターンだ。
やばい。
要するに投げたから、監督うまく尻を拭いてくれ、のパターンである。
主人公の部屋ワンシチュエーションもの。
ある朝大地震が起こり、大停電。
なぜか部屋の天井に謎の穴が開く。
そこから現金や高級バッグが落ちてきて、
水着の美女も落ちてくる。
主人公ウハウハ。
しかしさらに穴からヤクザが落ちてきて、
うちの女になにすんじゃいと詰め寄られ大ピンチ。
こんなのおかしい、絶対へんだとラジオをつける。
と、臨時ニュースが流れ、「各地を襲う大地震は、夢です」
と言われて起きる。
「夢かあ」
コピー:真実はラジオから。ニッポン放送
いや、これ落ちないやん。
困ったから夢落ちにしたんやん。
前段や展開をいかに組み立てを変えても、
この落ちやと無理やん。
困った僕はうんうん唸り、起きたあとにワンシーン足した。
「しかし変な夢だったなあ」
と、トップシーンと同じアングルに戻る。
と、ごみ収集車がくる。
「あ、ゴミ出さなきゃ」
ブランドバッグのカタログが乗ってる雑誌、
水着美女のエロ本、
やくざと現金が舞う映画のビデオ、
などなど、今までみた夢は、
全て「欲望」をメディアから植え付けるものであった。
コピー:ほんとの毎日、ラジオから。ニッポン放送
全てのメディアは、欲望という嘘である、
真実はラジオから流れるのだ、なんて、
「ゼイリブ」のような落ちに変えたのである。
最初に脚本を書いた人のプライドを傷つけることなく、
テーマ(コピー)を変えることなく、
夢落ちのなんでや感を逆に利用する、
ウルトラC的な改変だったと思う。
むしろ、他のメディアは嘘(夢)に過ぎない、
と180度ひっくり返すことで、
「夢にする意味」があるように構造上なっているのだ。
夢落ちならそれで構わないが、
それがなんの意味があったのか、がなければならない。
「シックスセンス」「ジェイコブスラダー」は、
それが優れた傑作である。
夢落ちが何故いけないか。
夢だったら、これまでのことが意味がないからだ。
つまり、テーマがなくなるからである。
無テーマ作品になってしまうのである。
漫画「東京大学物語」「奇面組」のラストは、
有名な夢落ちである。
このがっかり感。これまで読んできたことへの徒労感。
これまで来たことが徒労に終わってむなしいということは、
逆に、
映画とは、これまで来たことに、
その解決に、なんらかの意味を見いだすことなのだ。
2015年02月08日
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