2015年02月08日

中二病ってなんだろう

自分は特別だ、と思うことは、
自我の芽生えでもある。
他人と自分の差を考え始めるとき、
他人と違い自分は特別だ、と考えて、
自と他の線引きをしはじめ、
集合的無意識から自我は分離されて行く。

その特別感が漫画的なものが、中二病か。


幼児的全能感とは異なり、
何か特別な能力があると信じる。

暴走族的ななにか、暗黒魔術的な何か、
二重人格的な何か、武術的な何か、
異世界的な何かなどなど。

これは下手にこじらせると痛いが、
上手く育てると才能に変わると思う。

「漫画的な何か」を強く信じることは、
創作者の芯にいるからだ。
逆にプロのクリエイターとは、
中二病が治らずに、プロ中二病になった人のことだ。

40越えたおじさんが「天狗の力が炎になって」なんて、
真剣にやっているのだ。
ちょっと前まで、「先に眠る、我が友よ」なんて壬生の台詞を真顔で書いて、
しかも皆の号泣やありがとう壬生の喝采を受けていたのである。
これがプロ中二病である。


プロだから、生半可な妄想ではない。
どこかで見たような世界をパクらずに、
オリジナルをつくってくる。
漫画的な世界から、現実を舞台にしたドラマ的世界まで、
中二病の妄想の範囲は広い。
プロだから、過去の妄想の歴史にも詳しく、
系譜も頭に入っているから、
パクりなんてやる訳がない。
むしろ、その系譜を発展させ、
その系譜の下に正しく連なる本気がある。

プロだから、自覚を持っている。
引かれる範囲を知っていて、現実の大人とは、
子供の成長やプロスポーツの話などで盛り上がる処世術はある。
そのタガをどこで外すか、心得ている。
その妄想が他人からみてどのレベルかの、自覚もある。
欠点も分かっていて、延びしろも分かっている。
到達点はこの程度だろう、と現実的な威力も知っている。
妄想世界と現実世界の違いを肌で知っているし、
よく考察している。

プロだから、中二病の気持ちが分かる。
現実がつまらなくて、窓の外ばかり見てる人の気持ちを良く知っている。
かつてその窓の外に飛び出せないかと妄想していて、
そして本当にプロとして飛び出している。
プロ中二病は、中二病の代表である自覚がある。

プロだから、妄想の範囲も広い。
暗黒魔術的だけでなく、異世界的だけでなく、
現実ベースの写実的世界にまで、
妄想の範囲を広げている。
青い空の白い雲に乗っかりたい、から、
黒炎を纏いし裏人格のサタンみたいなもの、から、
バイトの子がもし俺を好きだったら、
ある秘密部署に異動になったら、
殺人犯にでっち上げられたら、
まで幅広い。
年齢を重ねて、年齢なりの経験を経て、
なお妄想の範囲を広げている。


アマチュア中二病は、
漫画の世界と現実の区別がつかず、
現実のプレッシャーを漫画のリアリティーで乗り越えようとすることだ。
それはいつか現実の前に破れ去り、
黒歴史として記憶の底に封印されてしまうだろう。

プロ中二病は、それでもなお妄想を止めなかった人が、
継続して中二病なのだ。
現実のプレッシャーに耐えられず、
多重人格(解離性同一障害)になるように、
現実のプレッシャーを妄想で癒すのである。
リア充は、おそらく中二病が治ってしまう。
現実のプレッシャーがなくなるからだ。
プロ中二病は、治らなかった人だ。
相変わらず窓の外ばかり眺めているのだ。

そのなかで、技術を獲得した者がプロになり、
プロの人生までいかなくていいや、と思った人は同人誌をつくり、
そこまでの情熱はないなあ、と思う人は、
どこかで妄想を書いたり語ったりすることで、
自分の中の中二を納得させる。


あなたのゴールはどこだろう。
どうせやるなら、プロ中二病に至って欲しい。
この病は治らない。
治らないが、
高校、大学、社会人、結婚、出産、
あたりの人生のイベントで、どんどん脱落していく。
自分で妄想をつくるというよりは、
他人の妄想を楽しむ程度に落ち着いてゆく。
それが現実的着地点だとリアルな生活の中で納得し、
いずれ妄想の泉は、年を取ることで枯れる。

妄想は、命そのものだ。
現実への対処法という、我々の生命力の一部だ。

中二病を笑うことは出来る。
しかし僕は決して中二病を馬鹿にはしない。
それは人間の生命力だ。
ほとばしる妄想を、ひとつの世界へ構築せよ。
その世界が存在する意味、すなわちテーマをつくり、
その世界をモチーフにすることで、
あなた以外の中二病がそこに入ってくるようにせよ。
そのテーマが確定してその世界が閉じるとき、
そこにいた中二病たちを、現実の世界へ帰れるように手土産を持たせよ。
我々は、かつてそうやって妄想世界から受けた恩がある。
それを、他の中二病にも分け与えよ。

辛い現実のプレッシャーの世界で、
その世界を生きられるだけの妄想を与えよ。

僕はかつて木刀に風林火山と彫って振り回した。
木刀を振っても世界は変わらなかった。
しかしその時の僕の目の前には、
炎が立つ聖地が見えていたし、
紫煌剣の邪火麗や雷光剣のネロが立ちふさがっていた。
僕は風の術の使い手で、聖剣の正当継承者だった。
飛鳥武蔵の黄金剣との決着も、
僕の目の前で起こっていた。
二十年後、自分が実写化するなんて知らないまま。

僕はそこから直結する世界に、まだいる。
妄想の泉は、まだ湧いているようだ。

我に続け。
中二病は治らない。
ならば、より強くなって、プロ中二病になれ。

創作の原点を、いつも見失うな。
泉の湧く原点の名は、中二病である。
posted by おおおかとしひこ at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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