2015年02月09日

物語とは、アイデンティティーの確定2

ずっと気になってる挿話がある。
「ニューシネマパラダイス」の中の話。

姫と結婚したいと申し出た男が、
その愛を示すため、窓の外で100日待ったエピソードだ。
最初は見向きもしなかった姫も、
次第に毎日窓の外に立つ彼に心動かされ、
応じる覚悟が出来る。
しかし99日目、彼は姿を消したのである。

何故彼は姿を消したのか。


映画の中では、
好きな彼女を射止めるためのやり方として紹介される。
もういなくなったのかと彼女が扉を開けたら、
やっぱりいて、愛は成就する場面だったと思う。

ところがネタに使われた王子が何故行方不明になったか、
ついに語られることはないのだ。

僕はこのことについてずっと考えている。
99日待って、何故たった一日が待てなかったのか。

自信を失ったのか。
もし100日待ったのが無駄だったら、と思ったのか。
99日待って無駄だからもう一日待っても意味ないと思ったのか。

僕はずっと、「姫の心を得る自分が怖かったから」だと思っている。
心理学的には「成功不安」というのだそうだ。

僕はそれに昔から反応するらしく、
「アニー・ホール」の、
「僕みたいな奴を入会させるクラブは(レベルが低いから)、
僕は入らない」という逆説がいつも僕の中にいる。

これはこの映画のテーマである。
僕なんかを好きになるような女は、
僕の考えるような素晴らしい女ではない、
と思う節もある。
だから憧れの好きな子に好意を示されると、途端に冷めるという、
不可思議なる自意識過剰さがあると思う。


つまりは、
アイデンティティーが確定するのがこわいのである。

自分探しをして、見つけた人はいるのだろうか。
○○が俺だ!なんて定義文を見つけたのだろうか。
多分いないと思う。
アイデンティティーを探してる自分に酔っているだけだ。
自分が確定してしまったら酔いは覚めるから、
酔うのが目的なら、確定を永遠に避ける。



僕は、物語の執筆が途中で止まる原因は、
自己批判する悪魔が出てきた訳でもなく、
飽きた訳でもなく、
アイデンティティーが確定することが怖い、
という恐れではないかと思うのだ。



一方、完結した物語の、
キャラ紹介Wikiを見ていると面白い発見がある。
変化を経た人物については、
変化後の姿を書いていることのほうが多いのだ。

じぶんとこの例だと、風魔のWikiがそうである。
物語の大部分では変化途中を描いていた筈で、
変化後なんて最終回付近のわずかな尺しかなかった筈だ。

にも関わらず、
全部見終わったあとの状態で、回想形式に近い形で、
キャラ紹介をしているのである。


すなわち、キャラクターとは「アイデンティティーが確定した者」のことなのだ。

(壬生の項にやや問題がある。壬生は血気盛んではない。
地はクールでプライドの高い人物だ。初登場時、死ぬ間際に地が出る。
本編の殆どで彼にとってのプレッシャーの高い状態だったので、
「必死」だったのだ。プライドの高いぼっちゃんが、半泣きで頑張っていたのである。
その具合が面白かったため、「壬生的」といえばその状態のことを言うだけだ。
つまり、キャラクターの見た目の性格などは、文脈で変わりうる)


その殆どが最終回後の確定状況を踏まえたものであることを鑑みると、
風魔という物語は、とことん各キャラクターの変化を掘り下げてつくったことが伺える。
このような、「アイデンティティーの確定」、
すなわち、ふわふわしたものから、この人は何者か、と確定するまでが、
物語だと、言えるのではないだろうか。



傍目から見れば、これはあきらかなのだ。
にも関わらず、自分でやるとそれを見失う。
主人公も、脇役も、どの人物もあなたではなく他人である。
その他人の変化、すなわち、その人のアイデンティティーが確定する決定的物語こそが、
物語を書くということだ。

「後戻り出来ないポイント」が何故あるのか。
決定的という、時間特有の現象であり、それが変化の原動力であり、
それが時間軸を扱うことだからだ。

つまり、後戻り出来ないことは、
展開に関係し、成長に関係し、アイデンティティーの獲得に関係する。
posted by おおおかとしひこ at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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