さらにアイデンティティーの話を続ける。
では、アイデンティティーとはどのように定まるのか。
おれは、○○という人間だ、という内部からの肯定と、
あの人は、○○という人間だ、という外部からの規定の、
二つがあると思う。
これまで繰り広げてきたように、
三人称という他人をカメラで撮る形式では、
決して人の思考を写すことができない。
従って論理的に、アイデンティティーは、外から規定する。
(例外がひとつだけある。
主人公のモノローグである。これについては後述)
外からの規定というのは、
あの人は○○な人だ、という、誰が見ても分かるようにする、
ということだ。
あの人は勇気のある人だ、あいつはバカだ、あいつは素敵だ、
あいつは弱気だがやるときはやる、
などなど、簡単に描けるものから、難しいものまであるだろう。
外から見て分かる、その人の人となりは、
その人の言動で分かる。
つまり、いつどんなときに、何を言うか、何をするかで決まる。
はいここ大事なので繰り返します。
その人を規定する、その人とはこういう人である、
と三人称形で表現する方法は、
その人の、その文脈での、台詞と行動によってである。
その人がどういう性格かとか、
その人の哲学とか、
その人の過去とか、
その人の思想とか、
その人の好き嫌いとか、
その人の癖とか、
その人が何をどう認識しているかとか、
その人がその時どうあろうとしたか、
そのとき何を思っていたとか、
などの、三人称形で見えないものは、「一切」関係ない。
ただ、台詞と行動だけで、その人のアイデンティティーが確定するのである。
すなわち、その人とは、
○○というときに、
○○と言った人、または、○○をした人、
でしか表現出来ないのである。
物語とは、アイデンティティーの確定である。
だとすると、主人公が、いつ何を言って、いつどういう行動をするかでしか、
確定出来ないのだ。
少なくとも映画では。
つまり、映画とは、
(自分でない他人の)主人公が、途中あやふやであっても、
最終的にとった行動、または最終的に言ったこと、
でアイデンティティーが確定することで終わるのだ。
それが決定的なのは、
クライマックスのラスト一撃、
またはラストシーンである。
つまり、そこでの言動こそが、
主人公のアイデンティティーを確定させ、
それこそがテーマを直接的間接的に表現するのである。
これまで議論してきたように、
台詞よりも行動のほうが強い。
音の記憶よりも絵の記憶のほうが残りやすく、
台詞は嘘をつくが行動は嘘をつかず、
台詞はアクションではないが行動はアクション(すなわちムービー)だからだ。
従って、これまた論理的に、
三人称の主人公の、
クライマックスまたはラストシーンの「行動」が、
彼のアイデンティティーの確定(固定)であり、
それがテーマなのである。
それ本当?極端な単純化じゃね?
そんなことはない。例を見てみよう。
風魔のラストシーンは?
小次郎の台詞は再会の約束をしたこと、
行動は姫子の後ろで支えてること、そして額にキスして去っていったことだ。
それが彼のアイデンティティーの確定であり、
忍であることの宣言と、
ただの忍びでないこと(小次郎らしいこと)の宣言の、
ふたつの同時表現なのだ。
そして、最良の台詞は無言である、という格言通りこれらは無言で行われる。
無音ではなく、甘い音楽がかかる。告白の時と同じ曲だ。
これが彼のアイデンティティーであり、テーマの全てなのだ。
(その脚力は…以降はお約束の繰り返しアレンジだから、
実質のラストシーンは別れである)
三人称形でやることは、これが全てだ。
行動で分かる範囲の、
思想や思考や哲学までしか表現出来ない。
逆に、言葉よりも雄弁な、行動で表現するのが、
映画というメディアの特徴なのだ。
例外がひとつだけある。主人公のモノローグである。
行動よりも、言葉による表現が有効なものは、
モノローグでアイデンティティーを確定させることがある。
「アニーホール」での主人公の語りがそれである。
行動で表現出来ない自意識への逆説を、
冒頭とラストシーンでブックエンドにすることで、
アニーという失われた彼女と、
自分という終わりなき迷路を示す、青春映画の傑作である。
(ハッピーエンドでなく、バッドエンド作品だ)
アニーと同じ、ロブスターを冷蔵庫の裏に離してみるが、
あたらしい彼女の反応が詰まらなくて、
失ったアニーの大きさを知る、ラスト前のワンシーンが堪らなく好きである。
それは行動だけの表現では難しい、
言葉による表現だからこその、
主人公のアイデンティティー確定のラストだ。
主人公のモノローグによるアイデンティティー確定のラストで、
僕がベストに上げるのは、アニーホールと、
アニメ「四畳半神話大系」である。
最終回の、自意識の迷路からの脱出法はいつ見ても涙が出る。
僕が原作者と同時代京大で過ごしたことと、
ちょっと関係あるかも知れないが、
あのやり方は第一話から全て計算され尽くした上でのラストで、
素晴らしい。あのラストは原作ごえだと思う。
(ついでに言っておく。「夜は短し」やらせろ!)
どっちかだ。
言葉か。
言葉よりも雄弁な行動か。
どっちかで、あるいはどっちもで、表現せよ。
それを書く勇気と実力がないから、
最後まで書けないのだ。
2015年02月10日
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