2015年02月10日

物語とは、アイデンティティーの確定4

大事な話なので丁寧に続けます。

ところで、下手な人の脚本にありがちなこと。

主人公が巻き込まれ型で、行動をしない。
聞かれれば答えるが、
自分から何かをせず、流されるだけ。
なのに、最後の最後で決意の一歩を踏み出す。

これは、一人称小説によくあるタイプだが、
三人称形では、うんこである。


一人称小説では、
極論すれば8割をインナースペースにとり、
2割をアウタースペースに割いても構わない。
独白文や、地の文(○○と思った、など)でだ。
つまり、一人称小説のメイン舞台は、
心のなかである。

一方、三人称形では、
メイン舞台は、人と人の間のリアル空間だ。
主人公がどんなに面白いことを思っても、
それは見えない。
主人公を記述するのは、
台詞と行動である。(脚本的に言えば台詞とト書きだ)

脚本の未熟な者は、
一人称小説を三人称形に持ち込んでしまう。
だから主人公が何者か、表現出来ない。


三人称形では、
最初の事件が起きたあとの主人公の言動で、
まず主人公の初期設定がなされる。
(それ以前のバックストーリーは、その前の日常パートである)
その後、それに対する誰かのリアクションがあり、
それにリアクションする主人公の言動で、
再び事態は動き、
次々に主人公がどういう人間か、更新されて行く。

統計を取ってはいないが、
映画の中で、主人公の言動は5割を越えると思う。
誰にたいして、何を言うか、何をするかで主人公を描き、
それによって事態が進むことが、
三人称形である。

それは、常に揺れている。
同じ反応をするロボットではない。
気持ちも揺れて、状況も危機にある、
非常事態での心理である。
アイデンティティーという同一性とはほど遠い。
安定した状態での安定した自我ではない。
その不安定な心の移り変わり、
その不安定な言葉と行動が、
三人称形の8割である。
(残り2割は最初の日常とラストシーン)

事態の収束、解決をするのは主人公である。
主人公のラストの行動で、
ようやく全てが停止する。
だから、その時までに揺れに揺れていた、
主人公のアイデンティティーは、
「○○した人」という確定を受けるのである。

三人称形の物語とは、これをすることで何かを表現する形式である。

これに一人称小説を持ってきてはいけない。
それを気づかずに持ち込む未熟者がとても多い。


一例を。
「桐島、部活やめるってよ」の元野球部(ラストにグラウンドにいく人)、
「落下する夕方」の原田知世、
うんこ実写「ガッチャマン」の大鷲の健。

これらは一人称小説では、
おそらく雄弁な筈だ。内面で何もかも語れるだろう。
しかも、ラストにそれを実行に移すというカッコいい終わり方をするのだ。

ところが三人称形では、
黙って突っ立ってなにもしない人なのである。
これまで何だか分からなかった人が、
最後だけ雄弁に行動して終わる。
それは、三人称形では、
最初の事件の反応と等しい。
ここから二時間その主人公の言動を追うことが、
三人称形での物語なのだが。


物語とは、アイデンティティーの確定である。
揺れに揺れていたアイデンティティーが、
最後の言動で確定することである。

一人称小説では、揺れに揺れていたアイデンティティーは、
独白や地の文で行われる。
そして最後に言動で、確定して終わる。
三人称形では、揺れに揺れていたアイデンティティーは、
主人公の言動で行われる。
そして最後に言動で、確定して終わる。

物凄く大雑把な議論だが、
このようなことだ。

例えば、普段書いている小説てんぐ探偵は、
のちのことも考えて三人称形である。
ためしに一人称小説として書いてみた、
21話「涙目は、炭酸のせいにした」を参考にして、
例えば20話「最後の火吹き」などと比較するとよく分かると思う。
(20話はちょっとずるくて、「画風が変わったと思う」と、
独白を入れたのが厳密な三人称形ではない。まあ、ナレーションで入れられる範囲だけど)


アイデンティティーは揺れる。
初期設定から最後の確定まで。
それは、その人の台詞と行動だけで表現される。

このブログの初期に、行動だけのリストをつくることをすすめた。
それが何十回あるか、それがどれだけ豊富にあるかが、
三人称形物語の動的面白さに直結しているのである。


実写風魔を思いだそう。
主人公小次郎と、裏主人公壬生は、
その自身の言葉と、行動で、我々にその苦悩や決断を伝えてきた。
決して独白でも、悩む顔芸で伝えたのではない。
そしてそれは、ラストの言動で、
揺れに揺れたアイデンティティーが確定した。
姫子へキスすることと、武蔵へ黄金剣を託すことで。
小次郎は、「姫子を愛する忍び」になり、
壬生は、「友に託した男」になったのだ。
逆に、これを一人称小説で書くのなら、
行動や台詞よりも、
内面の吐露が中心の構成になるのではないかなあ。
(壬生の一人語り?それはそれで、面白いぞ)

壬生は、ぶれにぶれた。そこが面白かった。
そのぶれは、独白だったか?否だ。
黄金剣を盗んでの出奔という行動によってだ。
陽炎と組み(騙されてるんだけど)新生夜叉をつくるという行動によってだ。
三人称形での物語の面白さとは、
こういうことを言うのである。


三人称形とは、行動である。
行動に行動で返す。それに行動で返す。
そのオセロの果ての最終的な行動が、
その人が何者であったかを決める。
posted by おおおかとしひこ at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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