これまでの三人称形の議論から、
ナレーションを多用することは、
三人称形における、楽しみを大幅に減じることになることがわかる。
他人の台詞と行動から、
意図や目的を察することや推理すること、
あるいは意図や目的が明らかになっていて、
その台詞や行動がとても気持ちよく、
理性が働かずに観客と流れが一体化していること。(感情移入)
これが三人称形での楽しみであり、常態である。
また、それらの言動で、
各登場人物はどんな人かわかり、
それは揺れに揺れている。
確固たるアイデンティティーの筈が、
事態の進行によって、アイデンティティーの危機に晒されるのだ。
追い詰められているときもあれば、
落ち着いて決断するときもあるだろう。
その時々の言動こそが、
その人が今、本当は、何者であるかを表現するのである。
そしてそれが最後にしたことが、
その人がいったいどんな人であったかを、
定着、確定させるのである。
これが、三人称形の楽しみだ。
ナレーションは、これらを飛び越えて、
台無しにしてしまうのだ。
例えば、意図や目的を察したときに、
その人のナレーションで、
「僕はこう思っていたのだ」なんて入ったら、
「言わんでも分かるわ!」と腹が立つし、
意図や目的が分からない謎の芝居に、
「僕はこう思っていたのだ」と入ったら、
「言わんでも分かるようにせえや!」と腹が立つ。
ひとつふたつなら、まあ許せるが、
「毎回毎回解説ないとお前はなんもわからんのか!」
と腹が立つ。
この例で毎回出す、「私の優しくない先輩」という失敗作を見てみよう。
全編主役のナレーションが被る、
少女漫画的な「心の声」と実際のギャップをモチーフにした映画だ。
整形前の全盛期川島海荷がマックス可愛く、
それを撮るカメラマンは僕もお世話になっている、
篠田昇チルドレンの藤井さんである。
めちゃくちゃ可愛く撮れている、写真集としては完璧な作品だ。
にもかかわらず、マックス詰まらないのである。
それは、このナレーションという手法につきるのである。
三人称形芝居:「げっ」と言って固まる。
ナレーション:この人何考えてんの?キモい!キモすぎる!
なんて漫画的表現を、「全編」やるのである。
思春期とは、行動が未熟で、脳内で妄想が暴走しがちなものだ。
とくに恋というものはその最たるもののひとつである。
それをモチーフにしたことは面白いし、最初は物珍しいんだけど、
それをまんまやると、三人称形では、そのうち腹が立ってくる、
ということがよくわかる、
大変貴重な失敗例である。
演技が下手なのではない。
むしろこの年齢の女の子にしては上手いほうだ。
(それよりずっと年上の、蘭子さんの下手さを思いだそう)
文意を伝える、という演技は出来ている。
問題はその文にある。
三人称形の常識を無視した、全編ナレーションという手法そのものがだ。
この原因は何だろう。
僕は、三人称形ということの無理解だと考える。
例えば少女漫画的手法を実写に応用したら、
とか、安易なアイデアだったのだろう。
やってみたらこうなるだろう、と想像することも出来ないドシロウトが、
「やってみた」で失敗したのだ。
川島海荷という広瀬すず並の逸材の単独主演を、
このような形で潰してしまった、スタッフの罪は重い。
つまり、無知と無能のせいである。
さて。
ナレーションの全否定をしている訳ではない。
多用を諌めている。
節目節目で効果的に使うのは、とても良いことである。
例えば、まだ意図や目的が立ち上がっていない、
本編冒頭部は、最もナレーションが使われやすいところだし、
事件が解決して、意図や目的がなくなり、
日常へ帰還するときに、
もはや三人称形で表現できない言葉で語る、
最後にナレーションで閉めることは、
最もポピュラーなエンディングのひとつである。
(実写風魔は、ナレーターの小次郎アレンジという小技を使った)
それは、三人称形で語るよりも、
一人称形であるナレーションで話した方が、
言葉の伝達効率が早いからである。
言葉で伝えるならば、それが早い。
一方、「言葉にならない感情」を伝えるならば、
無言の動作で終わるのがとてもよい。
僕が絶賛するのは、
「きみが僕を見つけた日」(邦題最悪。原題タイムトラベラーの妻)の、
ラストシーン、黙って服を畳む動作だ。
これまでのこと全てを踏まえて、
なんと愛情深く畳むのだろう。
無言の愛の表現の、最も素晴らしいもののひとつである。
この映画はなんと「ゴースト/ニューヨークの幻」の脚本家、
ブルース・ジョエル・ルービンによる。
脚本的には傑作なのだが、
監督のドイツ人的な生真面目さと、芝居の内奥に入らない、
ちょっと引いたスタンスの為、
微妙な作品となっているのが大変惜しい。
それこそゴーストのような、明るいベタ演出だったら、
とても面白い作品になったはずの惜しい傑作である。
出来ればおれがリメイクしたいぐらいだ。
こんな言葉のない芝居の素晴らしさを知ると、
言葉を尽くしてナレーションをすることの、
馬鹿馬鹿しさを知ることになる。
ナレーションなんかお子ちゃまに感じるのだ。
(一方「アニーホール」のナレーションは、
芝居には不可能なことを言葉で語る。これが素晴らしい)
ナレーションには、もうひとつある。
登場人物以外の第三者、ナレーターの存在だ。
朝ドラや大河ではまだ残る、
昔のやり方だと思う。
しかしこれはとても素早く、
絵や芝居でやるにはまどろっこしいものを、
説明することができる。
登場人物同士の関係や、なぜこういう事態になっているか、など、
冒頭の「設定」を、
絵や芝居で語るよりも早く設定できるのである。
スターウォーズの冒頭も、
音でなく文字だが、ナレーターによる設定と同じである。
ナレーターは、ドキュメンタリーでより見ることができる。
ドキュメンタリーは、
必ずしも第三者が、意図や目的が察せられるように、
絵や芝居で表現してくれる訳ではないから、
それを「説明」する、
ナレーションが必要なのである。
逆に、三人称形ストーリーとは、
ナレーターの説明が不要なように、
言葉と行動で組み立てることだ、
と覚悟するほうがよい。
勿論、外連味としてのナレーターはよくある。
実写風魔のナレーターは、そのような意図である。
ナレーションは、一人称である。
小説の地の文なのである。
一方我々が命をかけるのは、三人称形での芝居だ。
元々異質なものが、混じっていることを意識するとよい。
ナレーションの多用が何故だめか。
三人称形で語るべきところに、
異質な一人称形が混じるからだ。
ちなみに、
登場人物本人のナレーションを、ボイスオーバー(VO)、
第三者のナレーションを、ナレーター、
といって技術的に厳密に区別することがある。
しかし、僕はナレーションそのものの頻度を減らすべきだと思っているので、
それはどっちゃでもいい派だ。
2015年02月11日
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過去記事ですが、関連したことでお訊ねしたいことがありコメントさせて頂きました。
最近手にいれた朝ドラのシナリオについてです。
少し前にヒットした某人気脚本家さんのシナリオなのですが、同じページで「役名(OFF)」という書き方と「役名の声」という記入を使い分けています。
当然、どちらもその役の顔は映らないで、声のみという意図なのでしょうが、この使い分けはどういう違いがあるのでしょうか?執筆者でない大岡さんに、憶測の回答を求めてすいませんが、教えて頂ければ幸いです。
よろしくお願いします。
オフは、オフナレ、心の声のときも使いますが、
「画面に映ってないが、聞こえる声」のときも使います。
画面に映ってる/映ってないのオンオフです。
たとえば、
ホラーで怪物から逃げたと思った時、
怪物の声「グルルルル…」
とあったら、
たとえば壁の向こうにまだいる、というような使い方をします。
怪物(オフ)「グルルルル…」
かもしれません。
駅から降り立った時、
妻の声「おーい、こっちこっち!」
と待ってた妻が登場するときもありますね。
オフナレや心の声表記としても使うので、
僕はややこしいので使いません。
ただテレビ局によっては慣習的な決まりがあったりします。
ナレと書いたりNAと書いたり(声)と書いたり。
また、
「その時その人が思ってる心の声」もあれば、
「時間が経って回想しているときのナレーション」もあり、
「今写っている人の時間」と別時間かどうかでも表記わけをすることがあります。
どれかに該当するでしょうか。
単なる気まぐれの不統一ということもあり得ますが。
なるほど、OFFの使い方には色々なパターンがあるのですね。
該当ページについてもう少し捕捉させて下さい。
ある箇所では、
○A駅・駅前 大勢の観光客。司会者(OFF)「台詞〜〜」○A駅・駅舎 司会者がロケしている。司会者「台詞〜〜」
としていて
別の箇所では、
○Xの店・前 主人公が歩いてくる。電話で話すBの声が聞こえる。Bの声「台詞〜〜」
と書きわけてありました。
このページを見たときに、自分の中でなんかひっかかりまして……。どちらも顔を映さない指定であるのはわかる。
では、具体的にこの作者はどう使いわけているのだろうか?
と考えたのですが、上手く納得いく説明が自分にできませんで、お訊ねした次第です。
その場合だと、
司会者の言葉は前のヒキに先行している、という意味ですかね。
主人公の注目したBの声と、
とくに誰も注目していない司会者の台詞、
のような、
読み手に重要性を伝えるための書き分けと思われます。
(あんまり伝わってないですが)
司会者の声を前の風景に被せるかどうかは編集の仕事なので、
そこまでシナリオで指示するべきではないと思われます。
(よほどそこが伏線になってれば別ですが)
なるほど、読み手に重要性を伝えるために書きわけているのですね。
>司会者の声を前の風景に被せるかどうかは編集の仕事
これは、眉唾でした。
僕の持っているいくつかのシナリオ集では、
先行する風景に、〜の声「台詞……」と被せる指定を
するシーンが多く見受けられます。
テレビドラマのシナリオ集が映画よりも手に入り易いので、
テレビドラマのものが多いのですが。
なので、てっきり、先行する風景に声を被せる指定は、
脚本家がキチンと担う役割なのだと思い込んでいました。
それは基本的な誤りです。
シナリオライターは話が面白いことが主な仕事です。
それをどう見せればその話を最も効果的に伝えられるか、
は監督の仕事で、そこに関与するのは越権行為です。
「頭に浮かんだ映像をそのまま書く」のは間違いで、
どう撮って編集しても面白いストーリーが、
シナリオに本来求められているものです。
第一、現場は天気もあれば芝居の空気もあるので、
イメージ通りの撮影なんてできないものです。
撮られたものから一番効果的な編集をする、
というのはシナリオライターは知っていたほうがいいでしょう。
頭の中で考えている風景よりも、
現実にもっとすごいのが現れることもあるので、
シナリオは絵に関することより話に関することを書くべきです。
○A駅に人が集まっている
ざわざわした人々。そこに司会者の声がひびく。
○A駅前の会場
司会者「…
のように日本語でつなげるべきでしょう。
変に技術用語をつかうのはスマートとはいえません。
よくわかりました。
脚本家が監督の仕事まで指定しよう
とする越権的な傾向が最近のシナリオに
見受けられる、ということですね。
いかように撮影しても面白い話を
考えるのが脚本家の仕事。
肝に銘じておきます。