2015年02月11日

芝居の神髄のひとつは「言外の意図」

少し難しい話。
役者側からまず台本を眺めてみよう。


役者は台本を渡されて、
まず台詞を言えるようにならなければならない。

しかしその台詞をほんとうに言えるようになるには、
その言葉が表す意味をそのまま言うだけではダメだ。

何故なら、
「すべての台詞が言葉通りの意味を100%伝える訳ではない」
からである。

思っていても言っちゃいけないこと、
つまり、何かを隠そうとして意図的にねじ曲げた言葉、
(枝野の「直ちに影響はない」)
本人ですら気づいていない、無意識に出た言葉の真意、
意図的に誘導しようと重ねた言葉、
追い込む為に言質をとる、
言いたいのに言えないもどかしさ、
などが、
ことばにはあるからである。

思ったこと、意図通りのことが、
100%駄々漏れになるのは、子供だけである。
大人は、
オブラートにくるんだり、
時に敢えて言わなかったり、
別の言葉に変えたり(「今日は親が来るから無理」)、
嘘をついたり、
保身のために言い訳したり(「今日は親が来るから無理」)、
するものである。

台詞が、
どの程度、本心を表しているか、
ここは何を思ってこのことを言ったのか、
もし本心が台詞と解離しているなら、
本心はどのようなもので、どのような言葉か、
そのギャップを、台詞に込めていくのである。

その意味で、
台詞は100%本心を表していないし、
台詞は100%本心が込められている。

役者は、つまり、
台詞や行動で表される、動機や目的や本心、
あるいは本人ですら意識化出来ていない、
その人物の無意識の本心にまで、
下りていくのである。


簡単な例を、実写風魔から。
年の離れた病気の幼い妹、絵里奈に対して、
「この病気は辛抱すれば治るよ」と笑顔で言う兄の武蔵は、
その言葉通りの本心だろうか。

心配をさせてはいけないという配慮と、
本気でそれを信じれば治癒力も高まるのではないかという希望と、
どんなことがあっても安心させるべきだという妹への思いと、
本当に兄がそれを信じてるから本当かも知れないと彼女に勘違いさせることと、
それは自分も信じたい、という、
極めて複雑な感情が入り交じっている筈だ。

あなたが飛鳥武蔵を演じるならば、
その万感の思いをこめてこの台詞を言うだろうし、
それがあなたのなかで成立するだけでなく、
見ている人全てにその万感が伝わるように、
言わねばならない。
明るいのだがそれは嘘で、しかも嘘と悟られてはならないように、
言わねばならない。


役者とは、書かれた台詞を、
そのような文脈の裏にまで到達し、
なおかつそれを体で表現するのが仕事である。
それを自分の台詞について全て、
そして他の役についても全て、
分かっておくのが、最初に台本を読み込むときにすることだ。

勿論下手な役者は、台詞通りの台詞しか喋れない。
あるいは、台詞通りの台詞すら喋れない。


台詞の文字に書かれていないものを、
言外の意図、などと言ったりする。
飛鳥武蔵の台詞で言えば、「病気は治る」以外に込められた思いだ。

「あなたが嫌い」に込められた愛していますという言外の意図、
「別に飲み物はいらないです」に込められた実は好きのサイン、
「君の才能を買ったよ」に込められた騙す意図、
「おめでとう」に込められた嫉妬、
「車で送るよ」に込められた口説く意図、
「あの子は特別よね」に込められたいじめ開始のサイン、
「あなたが好き」に込められた、前彼を忘れたい意図、
「どうしてあなたはこうなの?」に込められた、前彼が忘れられない意図、
「僕はいいですよ」に込められた失望、
「僕には分からない」に込められたバカのふり、

いくらでも例を書くことは出来る。

この例では一言レベルだが、
台詞というのはもっと長い。
その言葉ひとつひとつ、
流れひとつひとつに、
そのような言外の意図があり、
それを読み取り、なおかつ、観客が読み取れるようにすることが、
演技をするということだ。



このブログの脚本論では、
主にプロットのことを扱っている。
お話はどうすればつくれるか、についてのアプリオリな答えは、
プロットとテーマをつくることだからだ。

しかし、実際のプロットから、このような芝居として面白い、
実際の言葉を書いていくこと=執筆は、
プロットとはまた、別の段階の仕事である。
会話にするとしても、このような言外の意図がある、
含みの会話にするのか、
アメリカ人みたいなストレートな物言いにするのかは、
文脈によるとしか言い様のない難しさがある。
むしろ、プロットから実際の言葉にしていくことが、
才能と呼ばれる部分ではないかと僕は思っている。

だから、あまり執筆の実際については、
理論的に書くことができないでいる。

プロットで書けば大仰なことも、実際の台詞は一言かも知れないし、
プロットで一行のことも、実際には何ページにもわたる段取りかも知れない。
そこの理論的な部分は、
まだ言葉にはなっていない。
芸術の女神と仲良くしなさい、としか言いようがない。


当たり前だが、このような説明文には、
言外の意図はない。0だ。
ていうか0にしなければ説明文ではない。

一方、物語には、必ず含みや言外の意図がある。
意図的なこともあるし、本人が気づいていないこともある。
意識と無意識の話に、またまたなりそうなので、
ここではこれ以上面倒なので立ち入らない。


優れた役者は、少なくともそのように台本を読む。
物語と説明文の違いは何か。
言外の意図があるかないか、といえそうだ。
それは、
執筆とプロットの違いでもある。
posted by おおおかとしひこ at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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