2015年02月11日

憑き物を落とす

妖怪退治ものを書いてるからではないけれど。

芸術の大きな効能のひとつに、
憑き物を落とす効果がある。

分かりやすく、カラオケの例で。


僕はカラオケが好きだ。
僕は歌は物凄いうまいわけではなく、
むしろコンプレックスがあるのだが、
それを批評されないような環境なら、
歌うこと自体は好きである。

歌を歌うことは、
その世界に自分を仮託することでもある。

歌詞の世界に自分を投影するのだ。
感情移入でもいい。
たとえ詩の世界が女子高生の振られ話だったとしても、
自分が振られて傷ついたことを重ね合わせる。
そうやって、歌は歌うものである。
だから僕の好きな歌は、
物語のある歌だ。

自分でも歌えて時々歌うのは、「大きな玉ねぎの下で」(爆風スランプ)など。
高校生の時に好きだった娘を、歌いながら思い出したりする。

泣くこと、悲しむこと、笑うこと、喜ぶこと。
現実にうまくそれが出来なくても、
歌の中の世界なら、
それを演じることが出来る。
芝居より楽なのは、歌詞と音符が決まっていることと、
手軽なことである。

これは一種のカタルシス効果をもたらす。
現実にうまくいかなくても、
架空の世界で、泣き、笑い、幸せを得ることが出来るのである。
現実で言葉にならなかった何かを、
架空の世界の言葉と世界を演じることで、
たとえそのジャストでなかったとしても、仮託したことで、
昇華がおこるのだ。

あの歌の中の主人公はおれだ。
おれではないが、まるでおれだ。
もうひとつの、その世界に生まれただろうおれだ。
今と境遇や事情はまるで違うけど、
あの世界に生まれていれば間違いなくおれになっただろう、
おれだ。
そのおれが、架空の世界で泣いたり笑ったり幸せになったりする。
それを通じて、現実の自分のなかの何かが、
洗い流されるのである。


これをカタルシスとか、浄化とか、
憑き物が落ちるとたとえていう。

言葉にならなかったもやもやが、
別の出口を持ったのである。

最古の日本文学、和歌は、
架空の世界の架空の登場人物ではなく、
自然のもののあれこれに仮託するジャンルだ。

川面に散り散りに散った紅葉に、
自分の千々に乱れる心を仮託したり、
山鳥の尾の長い様に、
一人の時間の寂しさの長さを仮託するのである。
平安貴族は、
そのことによって、言葉にならない思いを、
自然の様に仮託して、
恐らくは浄化をしようとしたのだ。


歌は最も原始的な芸能である。
しかも人のものを見るのではなく、
自分が演じるのがカラオケだ。
最も手軽な、原始的カタルシス行為なのだ。

脚本を書くことや、小説を書くことや、
詩を書くことや、
ダンスをすることや、
演じることそのものや、
何かを創作する行為は、
平たく言うと自分のなかの憑き物を落とす行為である。
言葉にならなかった自分の何かを、
別の世界の何かに仮託する行為なのだ。

あなたは何故書くのか。
モヤモヤしてるからである。
そして、書き終えることで、スッキリするのである。

それをあなただけの役に立つものをオナニーといい、
沢山の人々の憑き物を落とすものを、名作と言うのである。

名作の条件は、だとするならば、
多くの人が入りやすい感情移入出来る主人公で、
しかも真に迫っていて、
怒濤のカタルシスが得られるもののことである。


歌が下手でもいい。
歌を歌おう。(誰にも聞かれないところで、大声で)
芸術の力の凄さを、身体に通そう。
「泳げたいやきくん」なんて、凄いぜ。

ラッスンゴレライ?あんなもの、歌じゃねえ。
最近の音楽が全然売れなくて、アナ雪が何故ヒットした?
憑き物を落とすかどうかの違いに決まってるじゃねえか。
posted by おおおかとしひこ at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック