妖怪退治ものを書いてるからではないけれど。
芸術の大きな効能のひとつに、
憑き物を落とす効果がある。
分かりやすく、カラオケの例で。
僕はカラオケが好きだ。
僕は歌は物凄いうまいわけではなく、
むしろコンプレックスがあるのだが、
それを批評されないような環境なら、
歌うこと自体は好きである。
歌を歌うことは、
その世界に自分を仮託することでもある。
歌詞の世界に自分を投影するのだ。
感情移入でもいい。
たとえ詩の世界が女子高生の振られ話だったとしても、
自分が振られて傷ついたことを重ね合わせる。
そうやって、歌は歌うものである。
だから僕の好きな歌は、
物語のある歌だ。
自分でも歌えて時々歌うのは、「大きな玉ねぎの下で」(爆風スランプ)など。
高校生の時に好きだった娘を、歌いながら思い出したりする。
泣くこと、悲しむこと、笑うこと、喜ぶこと。
現実にうまくそれが出来なくても、
歌の中の世界なら、
それを演じることが出来る。
芝居より楽なのは、歌詞と音符が決まっていることと、
手軽なことである。
これは一種のカタルシス効果をもたらす。
現実にうまくいかなくても、
架空の世界で、泣き、笑い、幸せを得ることが出来るのである。
現実で言葉にならなかった何かを、
架空の世界の言葉と世界を演じることで、
たとえそのジャストでなかったとしても、仮託したことで、
昇華がおこるのだ。
あの歌の中の主人公はおれだ。
おれではないが、まるでおれだ。
もうひとつの、その世界に生まれただろうおれだ。
今と境遇や事情はまるで違うけど、
あの世界に生まれていれば間違いなくおれになっただろう、
おれだ。
そのおれが、架空の世界で泣いたり笑ったり幸せになったりする。
それを通じて、現実の自分のなかの何かが、
洗い流されるのである。
これをカタルシスとか、浄化とか、
憑き物が落ちるとたとえていう。
言葉にならなかったもやもやが、
別の出口を持ったのである。
最古の日本文学、和歌は、
架空の世界の架空の登場人物ではなく、
自然のもののあれこれに仮託するジャンルだ。
川面に散り散りに散った紅葉に、
自分の千々に乱れる心を仮託したり、
山鳥の尾の長い様に、
一人の時間の寂しさの長さを仮託するのである。
平安貴族は、
そのことによって、言葉にならない思いを、
自然の様に仮託して、
恐らくは浄化をしようとしたのだ。
歌は最も原始的な芸能である。
しかも人のものを見るのではなく、
自分が演じるのがカラオケだ。
最も手軽な、原始的カタルシス行為なのだ。
脚本を書くことや、小説を書くことや、
詩を書くことや、
ダンスをすることや、
演じることそのものや、
何かを創作する行為は、
平たく言うと自分のなかの憑き物を落とす行為である。
言葉にならなかった自分の何かを、
別の世界の何かに仮託する行為なのだ。
あなたは何故書くのか。
モヤモヤしてるからである。
そして、書き終えることで、スッキリするのである。
それをあなただけの役に立つものをオナニーといい、
沢山の人々の憑き物を落とすものを、名作と言うのである。
名作の条件は、だとするならば、
多くの人が入りやすい感情移入出来る主人公で、
しかも真に迫っていて、
怒濤のカタルシスが得られるもののことである。
歌が下手でもいい。
歌を歌おう。(誰にも聞かれないところで、大声で)
芸術の力の凄さを、身体に通そう。
「泳げたいやきくん」なんて、凄いぜ。
ラッスンゴレライ?あんなもの、歌じゃねえ。
最近の音楽が全然売れなくて、アナ雪が何故ヒットした?
憑き物を落とすかどうかの違いに決まってるじゃねえか。
2015年02月11日
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