2015年02月16日

そもそも、言葉とは一次元である

我々の道具であり、脚本を記述し、
日常的に使ったり思考を記したりする「言葉」は、
そもそも一次元である。

脚本がうまく書けない人は、
まずこの一次元の道具に慣れていないのではなかろうか。


二次元や三次元を考えよう。
絵の創作が二次元で、
アニメーション(二次元+時間軸)や彫刻が三次元だ。
三次元が時間軸で動くダンスは、四次元かも知れない。

これらと、一次元はまるで違うジャンルであることを、
まずは直感的に理解しよう。
絵と彫刻が同じジャンルだと思う人がいないように、
言葉は、二次元でも三次元でも五次元でもない。


言葉が描く描像は、二次元的なものも三次元的なものも、
工夫すれば四次元的なものも、描くことか出来る。
だから言葉は一次元なんてバカなことがあるか、
という反論も最もだ。

しかし、言葉は、
ある言葉の次にある言葉を追加していくことしか出来ない道具である。

x軸上に言葉を足していったりy軸上に言葉を足していったりすることは出来ない。
必ず、ある言葉の「次に」しか言葉を足せないのである。

この意味で、ストーリーが分岐するゲーム(や映画)は、
言葉の一次元性を拡張する試みであったことがわかる。

ところが、この壮大な実験で分かったことは、
「複数のどのシナリオも面白くなくてはならない」という、
ごく全うな結論だった。
つまり、分岐することが面白いのではなく、
「複数本あるから面白い」ということになったのだ。

結局我々は、物語を、
「一本の線」としてとらえるように出来ている。
それは、
「自分が意識して体験することが、
ひとつの時間軸上に因果関係を持って並んでいる」
ことの反映だ。
自分が複数の時間軸上に存在できないからこそ、
カットバックする状況を、
「二本の線の同時進行」としか見えないのである。

Aの話はAの続きであり、Bの話はBの続きでしかなく、
平行世界的な、分岐や可能性の重なりあいについて、
我々はそれを解釈する言葉を持たない。
(シュタインズゲートは、その意味でずっと気になっている作品なのだが、
まだ手を出していない。おすすめの入り方、誰か御指南ください)

シュレディンガーの猫は、
「二つの可能性が重なった、ハーフアンドハーフの線は、
我々の言葉では理解できない」ことを揶揄する逆説である。


ということで言葉だ。

つまり、言葉は、
我々が体験する時間軸上に存在するように、
言葉を並べることでしか、
ものごとを表現できないのだ。

勿論、脱線や複線もある。
しかし本線は常に一本なのである。
これは、「わたしがおもう」こと、
主体がひとつであり、連続しており、時間軸上にいる、
ことの反映だ。


つまり。

上手な文章とは、
ひとつの主体が、時間軸上に連続しているように、
書けていなければならないのだ。

主人公や主体が突然変わってしまったり、
思考がバラバラになったり飛び飛びになったり、
はじまったことが終わらなかったり、
突然前ぶれなく出現したりすることは、
そもそも一次元ではないのである。


人間の思考は必ずしも一次元ではない。

何時間も連続して次々に考えるのは無理だ。
別のことを突然思いつく。
そういえば、と突然別のことを思い出す。
そもそも一回寝ると、連続性は失われる。
現代ではケータイなどによる思考の中断も甚だしい。

下手くそは、これをそのまま文章に反映させるから、
「一次元の言葉」という構造が崩れるのだ。
「ひとつの主体が連続して体験する一次元の時間軸」では、
なくなってしまうのだ。


言葉は一次元である。
文章は一次元である。
脚本は一次元である。

そもそも、そのように書けなければならない。


例えば日記。例えば論文。例えば説明文。
ただしい文章は、一次元で書けなければならない。
多少の揺れは許容範囲だが、
「それは一次元である」ことが、
世間の大前提なのだ。


僕はよく音楽を引き合いに出す。
それは、音楽も時間軸上に並んだひとつづきの音、
という一次元構造だからだ。

あなたが脚本がうまく書けないのは、
そもそも一次元の思考が出来てないのかも知れない。

すぐ脇道に入ったり、本道を見失ったり、
そもそも本道が詰まらないことを途中で発見してしまったり、
興味が別のことに移ってしまうだけなのだ。


一次元の思考や言葉は、
はじまりがあり、
途中があり、
終わり(落ち、結論)がある構造をしている。


そもそもあなたは一次元の言葉、文章をどれだけ書けるのだろう。
作劇力や脚本力と、文章力は必ずしも同じものではないと思うが、
一次元の扱いという点では同じはずだ。


(一次元でない、訳のわからない例:「マルホランド・ドライブ」。
この悪夢は無意識の構造に似ていると思う。
一次元に纏めるべき物語構造が、破綻しまくっている。
これは最も良くできた、映画で見ることの出来るパラノイアである)
posted by おおおかとしひこ at 13:17| Comment(7) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
シュタインズゲートはアニメから見れば良いと思います。
ただ、やはり原作ありきなので、映像化するとどうしても省略されてしまう所が出てきてしまうんですよね。(どのような作品でもそうなると思いますが)
なので省略が嫌な場合は原作のゲームやった方が良いかと
ゲームの種類は色々有りますがPC版が無難かと。
Posted by kishiya at 2015年02月16日 20:12
kishiya様、ありがとうございます。
しかしアニメじゃ一次元の話に収束しちゃうよなあ、と色々検索して、
ストーリーネタバレを大体読んでしまいました。
なんやこれ「バタフライ・エフェクト」やんけ。
未見ならおすすめです。ラストシーンが、多分絵が一緒と予想。
(意味は真逆だけど)

ということで、アニメ見るだけで満足しそうです。
ラノベ的展開とジョン・タイター要素が加わったバタフライエフェクトやなきっと。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年02月16日 22:20
>なんやこれ「バタフライ・エフェクト」やんけ。
ええwそのとおりです。
バタフライ・エフェクトに関しても言っておこうとは思ってたんですが忘れてました、すいません
ぼくはまあどっちもまあまあですね。
こういう系統だったらご存知かもしれませんが、ハイラインの小説「夏への扉」が好きです。
Posted by kishiya at 2015年02月16日 23:54
すいません訂正をハイライン→ハインラインでした
Posted by kishiya at 2015年02月17日 00:24
「夏への扉」は別格で傑作ですよね。

ぼくは映画が軸足なので、映画ジャンルを中心に考えてしまいます。
「夏への扉」はなぜ映画化しないのか。
それは、2時間に縮めると詰まらなくなるからです。
ラストの大仕掛けが、冒頭と近すぎる気がします。
「万感の思い」に、2時間では足りない気がします。

なので、二時間でのシナリオ、タイムトラベルもの、という枠組みでは、
「バタフライ・エフェクト」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」
「ドラえもん・のび太の大魔境」が図抜けて傑作だと思います。
あ、「ターミネーター」シリーズも。一応3まで。
タイムトラベルものの脚本的構造については、別記事を書いてみました。
ターミネーターのラスト、
"Storm is coming." "I know."
も、見事な伏線と解消の、逆転の例ですね。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年02月17日 15:13
高校生です。現国の評論文で「言葉は一次元性で不可逆的時間性の中に閉じ込められている」という記述が解らなくて、ネットを巡っているときに見つけました。
思いがけず解りやすかったです。
流石、言葉を使って仕事してる方は違いますね!
ストンと頭に入って嬉しかったので書かせて頂きました。
全然脚本とは関係ない通りがかりの者ですが、感謝を述べさせていただきます!

Posted by もんじ at 2016年10月06日 14:59
もんじ様コメントありがとうございます。

なにかのお役にたてれば幸いです。
思考とか解釈とか人生とかは、結局一次元なんだよなあ。
おそらく小論文などもやると思いますが、
自分で書く経験を沢山積むと実感しますよ。

さらに大人になると、論文やらレポートやら、
沢山書かなきゃいけなくなり、
高校生の頃に文章が得意だったらなあ、なんて不可逆な時間のことを思い出すかもしれません。

↑文章はこうやって、時間を進めたり逆行を想像させることも、
一応可能です。だからタイムスリップものはおもしろい。
Posted by おおおかとしひこ at 2016年10月06日 15:22
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