2015年02月16日

まとまった思考

前の記事のつづき。

ということで、
一次元である言葉を使って、一次元でものを書くには、
「一次元のまとまった思考」が必要なのである。


それは、
明確なはじまりを持ち、
途中があり、
明確な終わりを持つ。

他のものと区別出来る、確固たる特別性があり、
他と似ていては駄目だ。
(なぜなら、既に他にあるから)

先行する何かの批判に(結果的に)なったりすることもあるだろう。
現状の支配的な何かに反対する何かかも知れない。
あるいは、みんなが欲しかったけどこれまでなかった、何かかも知れない。
あるいは、単なる記録かもしれない。


いずれにせよ、そのまとまったものは、
「存在する意味」が存在する。
存在する意味がないのは、消えてなくなっても構わないから、
消えてなくなってしまう。
存在する意味があるものだけが、存在する意味が続く限り、生き続ける。



まとまった思考が出来ないのは、
1. 存在する意味のない、単なるまとまりにすぎない
2. そもそもまとまってない
の、どちらかである。

脚本を書くとき、
僕はプロットをきちんとつくることを勧めている。
それは、2.を事前にしておけ、ということだ。

思いついた勢いで走り出すと、それは決してまとまらない。
連載漫画で、まとまってきちんと完結したものがどれくらいあるだろう。
統計を取っていないが、万に一つあるのだろうか。
ドラゴンボールや、北斗の拳や、スラムダンクですら、
まとまらなかったではないか。

連載なら、まだ「途中で稼ぐ」からよいかも知れない。
しかし映画は、「完結した一本」が前提であり、
決して「途中でつづく」商売ではない。
(たまーに、あるけどね)

したがって、あなたは、まず「まとまったもの」をつくらなくてはならない。
それは、二次元的、三次元的にまとまったものではなく、
「一次元的にまとまったもの」としてである。
それは、言葉で書き、時間軸を持つものの、基本的形なのである。

そのひな形がログラインであり、プロットなのだ。


僕はテーマのことをなんとか言葉で表現しようと、がんばっている。
それは、1.のことを言おうとしているのだ。

単なるバカ話や、単なる昨日あったことは、
映画的価値はない。(ものすごいことなら、ある。「ホームレス中学生」のように)

「そのまとまりに、何か意味があること」がテーマなのである。

テーマをただ言葉で言うのは、演説であり、物語ではない。
物語は、テーマを言わずに、間接的にテーマを言う表現ジャンルである。



さて、つまり、あなたは、
一次元的にまとまったもので、
それが存在する意味があり、
なおかつ存在する意味を言わずして、読み取れる間接表現を、
つくらなくてはならない。


一次元的にすることを、発想が飛んだり、落ちを思いつかないことが邪魔をする。
存在の意味を、たいした話ではないと自虐することが邪魔をする。


あなたは、まとまった思考に慣れなくてはならない。

はじまりからはじまって、
途中で淀みなく展開し、
終わるべき時にきちんと終わるもの。
それがなんらかの特別な意味を表現しているもの。
(さらに作劇だと、直接言わずに間接的に言っているもの)


そもそもそれが出来なければ、脚本は書けない。
posted by おおおかとしひこ at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック