2015年02月19日

脚本づくりの二つのフェイズ

アマチュアの時は想像もつかないだろうが、
実際の脚本には、ふたつのフェイズがある。
出来るだけ全体をイメージしておくとよい。

それは、
一人で書いて完成させるフェイズと、
制作時、現場の要求に合わせてリライトするフェイズである。


一人で書いて完成させるフェイズは、
小説や漫画などの、
一人で書く物語とまったく同じである。

あるテーマやモチーフからはじまり、
ログラインを作ってみたりプロットを作ったり、
キャラクター表(動機、各種設定の覚え書き)や、
地図や、ボード(ブレイクシュナイダーのものを僕はつかう)、
などを事前準備し、
第一稿を書き上げ、
ああでもないこうでもないとひねり、
時間をかけて、最終稿へとリライトする。

それはひとつの文学を創作する行為である。
このブログでは主にこの全部を書こうとしている。


しかし実際には、脚本には第二のフェイズがあって、
現実にはそっちのほうが、
期間的にも、労力的にも、遥かに長い。

脚本家以外とのセッションによる、
改訂作業である。


あなたが誰かに提出する、あなたの最終稿は、
セッションにおいて、「第一稿」と呼ばれるに過ぎない。
あなたが練りに練って書いた、
流れや台詞や間や、磨きに磨いたことばたちは、
セッションする相手によっては、
叩き台だと思われていることもある。
叩き台というのは、人によっては、叩くのが前提のもの、
つまり、直すところばかりのもの、という認識すらある。

厄介なのは、慣れた俺たちが未熟で凝り固まった芸術家の思い込みを、
直してやるぜと、「思い込んでいる」ことだ。

直す人が技量が上で、脚本のレベルが低いなら、
叩き台は叩かれて良くなることもあるだろう。
しかし、厄介なのは、
脚本のレベルのほうが上なのに、
直す人の技量のほうが低いときもあることだ。


この時、脚本家にとっては、不快以外の何物でもない。
本来共に闘うべき味方が、
全員敵になるのだ。
折角作った高みの山を、あいつらは無神経にも低い山に削ってゆき、
美しい最高峰を俗っぽい里山にしてしまうのだ。
しかも脚本の無理解という愚かしさのまま。

あなたはここで、闘わなくてはならない。
彼らが無理解かどうかを探り、
無理解ならばそれを指摘し、理解させなくてはならない。

喧嘩をすることはない。
いかに素晴らしいかどや顔で語るのは駄目だ。
今完成しているこのことを、ただ客観的に魅力的に解説するだけでよい。
(彼らは忙しいので、脚本を大抵一回しか斜めに読んでいない)

本当にその批評や直しが、本質的に的確かどうかを、
まずあなたが見極める必要がある。

彼らも人間である。完璧ではない。
他のことにはエキスパートかも知れないが、
あなたの書いた内容にはドシロウトかも知れないのだ。
実は表面的なことを直すだけで、全く印象が変わって、
そういうことだったのか!なんてリアクションすることも良くあることだ。


脚本家は、そもそも自信がない。
ないからこそ、直せと言われたら、
良くなかったのか、と傷つくことになるのだ。
傷つく前に、
何故良くなかったのかを、相手に探ろう。
そもそも一番いいところを、彼らは理解していない可能性がある。



さて、某映画会社の呆れた実態を実録しておこう。
変な生き物の正体が最後に分かる、
ラストの大どんでん返しの映画をつくった。
その正体は漫画原作の段取りを、
そのまま丁寧に忠実に脚本化したつもりだった。
それが原作の一番いいところで、台詞も素敵だったからだ。

ところが、制作決定後、社内のプロデューサー全員がその脚本を読み、
「正体が誰か分からない」と言い出したのだという。
それは9割に及び、担当プロデューサーは、
誰が読んでも正体が分かるように直してくれ、
と言ってきた。

僕ははあ?と大声を出したと思う。
プロデューサーなら脚本を読むだけの読解力、
原作との比較力などがあると思っていたからだ。
実際のところ、
彼らは忙しい業務の途中で、斜め読みした程度で、
分かりにくいと言っていただけなのに。


直したのは失敗だった。
正体を分かりやすくするため、
冒頭にネタバラシシーンを書いてしまったからだ。
ここをラストでリフレインすることで、
素人にもなるほど、という仕掛けに苦し紛れに付け加えたのだが、
分かりやすすぎの嫌いはあったのだ。

編集でもこのポイントは揉める。
僕は切るべきとしたし、プロデューサー陣はあったほうがよいとした。
僕は今でもいらなかったと思っている。

問題はどこにあるか。

プロデューサーたちは、
「子供の世界だと思っていたものに、急に大人の正体が来る」
ことに違和感を持っていただけだったのだ。

だから、これは最初から大人の世界とわかったほうが良かったのでは、
という主張だったのだ。

一方僕は、原作の「子供の世界だと思っていたら、突然大人の正体が来る」
ことが面白いと思っていた。
それが面白いと思わないのなら、そもそも映画化することが間違ってるんじゃないかと。
彼らは、それを理解していなかったのだ。

子供の世界だと思っていたら大人の落ち、
という構造そのものの問題だったのだ。

それは、原作がある以上それを尊重して当たり前の前提だと、
僕が思い込んでいたのである。


原作つきの映画化において、
全てのプロデューサーが原作を読んでいるとは限らない。
同作者の他の作品についても読み込み、
この作者の世の中へのスタンスや、
どこを良いと思っているかを批評している人は殆どいない。
大抵は、次のビジネスがこれだから、という理由で、
脚本だけを読む。


脚本は、そのような人たちにも、
物語の本質を示すように書かれなければならない。
余計なディテールの、小手先では伝わらない。

もし良くなかったとか分かりにくかった、
と言われたのなら、
どこがこの物語の本質かを、分かりやすく議論する必要がある。
この時基準になるのが、
ログラインなのだ。


子供が変な生き物に助けられて成長して大人になる話なのか、
大人が子供を助ける話なのかを、
議論する必要があったのだ。

僕は前者だとずっと思っていて、今でも思っている。
しかし某映画会社は、後者として作ろうと思っていたくさい。
原作者の個性を、なるべく隠蔽して。

そのことに、ログラインの一行があれば、
議論できた筈である。僕はこのときまだこれを知らなかった。

ログラインは、その為にあるのだ。



さて。
ログライン、プロット。

これを見ながら、
「この脚本の本質」を議論できるようにしよう。

テーマなんか抽象的なもので議論しないこと。
(そして、本当の脚本なら、テーマは脚本の中に、
文字としては書いてないはずだし)

必ず、ログラインを合意することからはじめること。


「想像の世界に逃げる少年が、現実に立ち向かうことで、
想像の世界と別れる。その想像世界こそが大人の用意したものだった」
という、想像世界を媒介とした子供と大人の関係を、
ログラインとして、きちんと議論するべきだったのだ。

それをしないから、自分はこう思う自分はこう思うの平行線で、
俺の言うことを聞けと部分を直して、
なんだか鵺のようなつぎはぎの化け物に映画全体がなってゆくのだ。
そして皆は仲が悪くなり、二度とあいつとやらないと思い、
しかも作品のできはぼろ雑巾なのである。


ログラインを、まずは全員が合意するかどうかなのだ。
上のログラインが、映画会社のやりたいことでないのなら、
それは、そもそも僕が映画化することではなかったのかも知れないのだ。


この議論に参加するのは、
プロデューサーだけではない。
各スタッフやキャストもだ。
だから混乱する。
権力闘争の場になり、誰の意見を汲んだかが、大事になる。
それが作品の本質をねじ曲げているとしてもだ。




脚本のこの第二のフェイズを、
どう成功させるかは、僕には経験値がないので、
分からない。
無理解な人とやるべきではない、と逃げの一手で自分を今まで守ってきた。
しかしそろそろ、
ログラインがあれば、議論出来るかも知れない、
ということが分かってきた。

テーマやモチーフでは、議論が成立しない。
その教育が、日本ではなされていない。

ログラインならば、どういうことが起こり、
それはどんな本質かを、議論しやすいのではないだろうか。


もしあの映画を、
「大人が子供を助けにいく話」にしてくれ、
ということならば、風魔という傑作をモノにした直後の、
僕の人生は変わっていたかも知れない。
いい方向か悪い方向かは、分からないけれど。




さて。

色々な人が集まる企画会議の立ち上がりのときに、
あなたは書く前からログラインが見えているだろうか。
100%ではないだろう。
しかしログラインや概要がない限り、
企画会議ははじまらない。
ここにジレンマがある。

CMの世界では、こういうとき複数のコンセプトをもっていく。
会議の場でつくることは出来ないが、
選ぶことは楽だからだ。
それを見せられて初めて意見が具体化する人もいる。
これこそ叩き台である。


あるストーリーに関して、
こういうログラインの話にも出来るし、
こういうログラインの話にも出来る、
という、同じ話の複数のパターンを議論するのはどうだろう。

ログラインだけでなく、
プロット未満の、こういう場面があるといいよね、
みたいなスケッチ(1、2行でいい)の話をしてもいい。


こうやって、
ログライン、場面、プロット、と合意しながら開発が進んでいくのが、
おそらく「正しい」段取りだ。

脚本を書き終えてから、
「こんな話だと思わなかった」になるから、
ややこしくなり、
そして失敗するのだと思う。


日本の脚本家の中には、
直されるの前提で、わざとぬるい脚本を出す、
という世渡り上手もたくさんいる。
プロデューサーや監督が直すことで、
彼らを満足させ、自分自身は傷つかないからだ。
それが今の惨状であることは、
批判的に見ておくべきである。

何故うんこガッチャマンの脚本家や監督が売れっ子なのか?
よい作品をつくるからではなく、世渡り上手だからである。



もしあなたが、ちゃんとした、本物の映画をつくりたいなら、
少なくともログラインやプロットという道具を使いこなし、
なおかつ何稿も書くだけの、
体力と実力を、兼ね備えていなければならないのである。

そんなに才能と実力が必要なの?
その通りだ。
だから尊敬される仕事なのである。


多分このブログを読んでいる人は、
プロの世界の人ではないだろうから、
第二のフェイズについて知らないかもしれない。
だが、恐怖することはない。
あなたが本物の映画をつくりたいのと同様、
プロデューサーもスタッフも、
素晴らしい映画をつくりたい思いは同じだからだ。

ただ、「そもそも何を」つくるかというところが、
微妙に、ときに大きくちがうのである。

夫婦のように、一生わかり会えない男女として、
完全一致を諦めてもいいと思う。
呉越同舟の、互いに利益を得たいだけの、
集団でもよいと思う。

真意はどうでもいい。
俺たちも、観客も、素晴らしい映画を見たいだけである。



(なんか最近最終回っぽいなあ。
一から考えては最後まで、を何度もやるつもりなんだけど)
posted by おおおかとしひこ at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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