みんなが揃ったら、We're gonna have a hearty party tonight だし、
役者が揃ったらいっちょ派手な花火を打ち上げようかだし、
全員が揃うことは、
クライマックス直前を意味する。
すなわち第二ターニングポイントだ。
役者が全員揃ったら、
あとはクライマックスしかない。
バトルだろうがダンスだろうがパーティーだろうが。
逆に言えば、
物語とは、役者が全員揃うまでが、
殆どの尺である。(二時間映画なら、90分)
勿論、一回も全員集合しない、という原則があるわけではない。
どこかで揃うこともあるだろう。
だが、物語とはコンフリクトであったことも思い出されたい。
コンフリクトが混じりあうこと、であったことも思い出されたい。
ケンカも色々あったけど、
みんな揃って、ひとつだ、
が物語なのだ。
(よくある敵を倒すクライマックスでは、
「お互い直接殺しあうしかない」というひとつに、
全員が合意する)
つまり、役者が全員揃ったら、
あとはクライマックスだけだ。
逆に言えば、
部分的にしか会わない。
部分的なコンフリクトが、途中に何回もある。
部分と部分が広がり、いずれ全員集合、
になるまでの過程の面白さが、
物語の構造的面白さなのである。
その極端なものは、
最後まですれ違う、会えないメロドラマだ。
「母を訪ねて三千里」でも同じだ。
最後に会えば、レッツパーティートゥナイトで、
大団円なのである。
つまりは、
会いたくても会えないか、
会って火花を散らすかが、
物語の骨格になるのである。
(僕はガンダムにおける、ランバラルとアムロが会う当たりの流れがとても好きだ。
今思えばシャアでもやってほしかったなあ。アバオアクー以外でね)
さて、「車田水滸伝」は、武蔵がまだ出ていないそうだ。
全員集合したら、カムイ発動で終わりなんじゃね?
2015年02月22日
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この物語が好き
Excerpt: 拙稿本章の興味としては、この物語の原典考証ではなくて、なぜ私たちがこの物語の内容を好きになるのか、という問題です。
Weblog: 哲学はなぜ間違うのか
Tracked: 2015-02-26 21:07