2015年03月03日

ドリーム

あなたが夢見る少女や、妄想だらけの少年ならば、
脚本を書くのは向いてない。
あなたが現実をレポートする新聞記者のような人や、
事実を冷徹に書く検死医や数学者のような人でも、
脚本を書くのは向いてない。

その両方の才能が必要である。


最近リアリティーの話が多かったので、
今回はドリームの話。

映画は、リアリティーばかりを追うことではない。
そこに現れる、ドリームな瞬間をも、描くことだ。


実は、リアルには、
驚くほど面白い瞬間がない。
現実に事件など滅多に起こらない。
(それは日本がある程度平和だからだ。今後は分からないが。
だから事件は、あえて闇社会を取材したり、
海外へ取材しにいくような、ある種の危険を犯す必要がある)

例えばある場所に監視カメラを置いて、
事件が起こるまで回すとして、
どれくらい回すと事件を記録できるだろう。
勿論、万引きや泥酔などの小さな事件ではなく、
映画の種になるような事件だ。

設置する場所によるだろうけど、
24時間回して一ヶ月で撮れたらラッキーなほうだろう。
2時間のために、720時間回す。

つまり、現実は映画の360倍薄い。


随分乱暴な計算だ。
人や場所によって確率は変動するけど、
100倍変わることはないだろう。

何が言いたいかというと、
リアリティーには、映画的な瞬間なんてないのだ。

人は一生に一冊の本を書ける、と俗に言う。
小説一冊を映画脚本3本分と見積もろう。
逆に言うと、70年生きて、それぐらいしか、
書くことがないのである。

現実は、恐ろしくスカスカなのである。


そりゃそうだ。そんなに事件ばっかりの人は見たことがない。
忙しいタレントぐらい?
でも人間ってのは不思議なもので、順応してしまうんだよね。
慣れてくる。
だから、最初は映画みたいなことがあっても、
すぐに日常になってしまう。
だから、毎日事件ばっかりの人はいない。
福島の原発が爆発したのに、
東京は日常に戻ったんだぜ?
(この事実をジョンタイターに言われたって、
311以前の人は信じないだろうさ)

だから、「映画的な」ことは滅多にない。
リアリティーを追求すればするほど。

ときたま、事実は小説より奇なりのときがある。
しかしそれは創作でやると、嘘つけと言われるものだ。
(今流行りの大塚家具の社長交代劇の泥沼化とかね。
一年前にCMやらせて頂いたときは、業績上向きの時だったんですね)

つまり、リアリティーには、映画特有の、
ドリーミーな瞬間はない。
(一生に数えるほどしかない)



一方。
下手なリアリティーの作品は、
ドリームばかりの連打である。

俺ツエーとか、何故かモテモテとかだ。
そこにリアリティーがあれば、
それは上手なドリームになるのだが、
リアリティーがない故に嘘臭いだけである。

ドリームを描くことが、
物語を見たいとか書きたいことの大きな理由のひとつである。

ただそれが、嘘臭かったら、
リアリティーがなかったら、
ただの下手くそにすぎない。



両方を出来るようにしよう。

ドリーミーな瞬間が、
リアリティーある理由で成立するような、
ドリームを描こう。


荒唐無稽の中にリアルを見つけるのが、ひとつ。(風魔、Mr. インクレディブル)
リアルの中にドリームを見つけるのが、ひとつ。(最近あまりない)

どちらのアプローチでもいい。
リアルのつまらなさ、
ドリームの嘘くささ、
悪い所だけ残した作品なんかに価値はない。

人は劇場に何を見に来るのか、
考えればわかるはずだ。



僕は「てんぐ探偵」が後者になるかなあと思ってたけど、
30話を書き終えて、僕は前者の才能の人なのかな、と何となく思っている。
現在鋭意リライト中です。
posted by おおおかとしひこ at 01:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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