あなたが夢見る少女や、妄想だらけの少年ならば、
脚本を書くのは向いてない。
あなたが現実をレポートする新聞記者のような人や、
事実を冷徹に書く検死医や数学者のような人でも、
脚本を書くのは向いてない。
その両方の才能が必要である。
最近リアリティーの話が多かったので、
今回はドリームの話。
映画は、リアリティーばかりを追うことではない。
そこに現れる、ドリームな瞬間をも、描くことだ。
実は、リアルには、
驚くほど面白い瞬間がない。
現実に事件など滅多に起こらない。
(それは日本がある程度平和だからだ。今後は分からないが。
だから事件は、あえて闇社会を取材したり、
海外へ取材しにいくような、ある種の危険を犯す必要がある)
例えばある場所に監視カメラを置いて、
事件が起こるまで回すとして、
どれくらい回すと事件を記録できるだろう。
勿論、万引きや泥酔などの小さな事件ではなく、
映画の種になるような事件だ。
設置する場所によるだろうけど、
24時間回して一ヶ月で撮れたらラッキーなほうだろう。
2時間のために、720時間回す。
つまり、現実は映画の360倍薄い。
随分乱暴な計算だ。
人や場所によって確率は変動するけど、
100倍変わることはないだろう。
何が言いたいかというと、
リアリティーには、映画的な瞬間なんてないのだ。
人は一生に一冊の本を書ける、と俗に言う。
小説一冊を映画脚本3本分と見積もろう。
逆に言うと、70年生きて、それぐらいしか、
書くことがないのである。
現実は、恐ろしくスカスカなのである。
そりゃそうだ。そんなに事件ばっかりの人は見たことがない。
忙しいタレントぐらい?
でも人間ってのは不思議なもので、順応してしまうんだよね。
慣れてくる。
だから、最初は映画みたいなことがあっても、
すぐに日常になってしまう。
だから、毎日事件ばっかりの人はいない。
福島の原発が爆発したのに、
東京は日常に戻ったんだぜ?
(この事実をジョンタイターに言われたって、
311以前の人は信じないだろうさ)
だから、「映画的な」ことは滅多にない。
リアリティーを追求すればするほど。
ときたま、事実は小説より奇なりのときがある。
しかしそれは創作でやると、嘘つけと言われるものだ。
(今流行りの大塚家具の社長交代劇の泥沼化とかね。
一年前にCMやらせて頂いたときは、業績上向きの時だったんですね)
つまり、リアリティーには、映画特有の、
ドリーミーな瞬間はない。
(一生に数えるほどしかない)
一方。
下手なリアリティーの作品は、
ドリームばかりの連打である。
俺ツエーとか、何故かモテモテとかだ。
そこにリアリティーがあれば、
それは上手なドリームになるのだが、
リアリティーがない故に嘘臭いだけである。
ドリームを描くことが、
物語を見たいとか書きたいことの大きな理由のひとつである。
ただそれが、嘘臭かったら、
リアリティーがなかったら、
ただの下手くそにすぎない。
両方を出来るようにしよう。
ドリーミーな瞬間が、
リアリティーある理由で成立するような、
ドリームを描こう。
荒唐無稽の中にリアルを見つけるのが、ひとつ。(風魔、Mr. インクレディブル)
リアルの中にドリームを見つけるのが、ひとつ。(最近あまりない)
どちらのアプローチでもいい。
リアルのつまらなさ、
ドリームの嘘くささ、
悪い所だけ残した作品なんかに価値はない。
人は劇場に何を見に来るのか、
考えればわかるはずだ。
僕は「てんぐ探偵」が後者になるかなあと思ってたけど、
30話を書き終えて、僕は前者の才能の人なのかな、と何となく思っている。
現在鋭意リライト中です。
2015年03月03日
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