今更ですが、はじめて見た。最高。
ぐぐれば出てくる。
これもブックエンド、中に本編挿話、
という、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」
と同じ構造なのに、
彼我の圧倒的な差はなんだろう。
まず、中身の挿話の面白さだ。
昔の漫画風の世界をわざと書いたギャグ風味と
知りながらも、
実はアーム・ジョーに、意外と我々は感情移入してしまっている。
なんだかんだで、
「俺の斧…」に嬉しさを共有できるし、
最後の斧勝負には拳に力が入る。
そんな無茶な勝負は無理だ、ジョー!
しかし斧こそ自分だというジョーの思いも分からんではない。
ここがピーク。
死んでしまうというその悲劇をオフで誤魔化して、
この作品は怒濤のラスト、
小学生の生活のブックエンドに戻るのである。
馬鹿馬鹿しい。あまりの馬鹿馬鹿しさに拍手だ。
この馬鹿馬鹿しさは、
挿話本編、すなわちアーム・ジョーの話の、出来のよさがあればこそである。
以下ネタバレします。
落ちのダジャレのくだらなさは、
アーム・ジョーの熱さや悲劇があればこそである。
もしアーム・ジョーのあの話がなく、
「すげえ力持ちのアーム・ジョー」という、
1P程度の設定画があっただけで、
すぐにああ無情に落とされても、
面白くない。
それはダジャレだからだ。小学生勘違いあるあるにすぎない。
ブックエンド、つまり冒頭とラストの小学生のパートは、
挟まれた中の挿話、アーム・ジョーの話が面白いからこそ、
生きるのだ。
これは、脚本における、
一幕と三幕、二幕の関係と同じである。
中が面白くて、はじめて外が生きるのだ。
外の面白さと、中の面白さが揃って、
しかもそれが関係があって、
はじめてそれは爆発を生むのである。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の問題点は、
外は良いが中が全くというところだ。
しかも、中と外が「関係がない」ことが、
意味がないのである。
このことから、
世界を破滅するオーブと、ウォークマンが関係していれば良かった、
と予想することが出来るだろう。
物語のよい構造を研究するのに、最適な教材だ。
あなたもアーム・ジョーの人生に思いを馳せられるような、
感情移入に値する、面白い挿話を考えてくれたまえ。
当然のことだが、この挿話は、
三幕構造をしっかりと持っている。
しかしそのバランスは、全体の三幕構造に従ったページ配分になっているはずだ。
2015年02月23日
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