2015年02月23日

勢いとか、流れって何だろう

脚本を書く上で、一番の大敵のひとつはこれだ。
書いてるうちに、勢いがなくなっていくのだ。
流れていた筈の話が、急に止まってしまい、
さっきまで面白かったのが、急に詰まらなくなる。

書けなくなってしまう五秒前だ。
何とかそれでも書き続けようとしても、
一度停滞した流れは、二度と再起動しない。
こうして疲弊して、話が止まり、挫折がやってくる。

そして思うのだ。
流れとか勢いって何だろうと。

僕は最近、これを「観客のアドレナリン」だと思うようになった。


流れとは、観客のアドレナリンがドバドバ出てる状態のことである。

何に出るかは後で議論するとして、
理想は、上映時間中、二時間出ぱなしなことだ。
しかし詳しくは知らないが、その脳内麻薬には限界があるだろう。
二時間も出ぱなす訳がない。

だから、理屈の上で、アドレナリンは必ずどこかで止まる。
例えば15分ぐらいなら、アドレナリンの効果は持続するだろう。
だから短編は、流れや勢いがなくても、見れるはずだ。
(面白いかどうかはまた別だが)

つまり、長編とは、アドレナリン切れの瞬間が、
必ず一回はあるということである。
(実際には10以上あると思う。
それは、長編が何ブロックかに分かれている、
という直感が示している)

あなたが挫折したそのポイントは、
その、アドレナリン切れのポイントかも知れないかどうか、
まずチェックしよう。
そうでなければ流れを整理しさえすれば、
必ずアドレナリン切れのポイントまでは、
勢いよく書けるはずである。

さて、アドレナリンは必ず切れる。
そうだとして、
じゃいつ発火して、いつドバドバ出るのだろう。

原始的に考えると良い。
命の危険の時だ。
逃げる、追う、戦う、などはその原始的にアドレナリンが出るポイントだ。
物理的命の危険だけでなく、
社会的生命の危険でも良い。
正体や嘘がばれそうなとき、いじめの対象になりそうなとき、
告白する前、などである。
緊張がその必須であろう。

その危機が去り、安全が確保されたとき、
アドレナリンは収まる筈だ。


さて、危険を感じなければアドレナリンが出ない。
同じ危険ばかりで飽きたときや、
先が読めてしまったときは、アドレナリンは収まってしまう。
「危機ではない」と直感するからだ。

だから、同じ危機を使ってはいけないのだ。
最初のアドレナリンの次のアドレナリンは、
別の種類のアドレナリンを出させなくてはいけないのだ。


長編とはつまり、何ブロックかの、
別種のアドレナリンで出来上がった一連のことなのである。

序盤に起こる事件、冒険に乗り出すターニングポイント、
二幕の冒険における四種の障害、
いよいよ最後のハードルが見えた第二ターニングポイント、
クライマックスなどは、
代表的なアドレナリンポイントのパターンを示している。
ここでアドレナリンが出ないようでは詰まらないことを示唆している。
(これは経験的に導かれたものである)

これらは全て、別の種類のアドレナリンが出なくてはならないのだ。



あなたの挫折は、ひとつのアドレナリンが切れて、
安心したポイントに相当する。
次の種類のアドレナリンを、
あなたが把握していない限り、
あるいは書いてすぐに思いつかない限り、
いつまでたってもアドレナリンはやって来ない。
だから詰まらなくなって挫折するのである。

初心者は、一個のアドレナリンを書くだけで精一杯かも知れない。
二種、三種ぐらいまで用意して臨むかも知れない。
ところが、長編シナリオには、
何十ものアドレナリンが必要なのである。
(何十なのか十ぐらいなのかは、作品による。
一個一個がデカイのもあるだろうし)

また、アドレナリン切れから、次のアドレナリン発火までを、
どのようにスライドしていくかが、腕のみせどころであることも想像がつく。
ターニングポイントはこのためにあるのだ。
つまり、アドレナリンを勢いよく書く力と、
アドレナリンの谷間を上手く描き、次のアドレナリンに繋ぐという、
より実力が必要な、二つの力が必要なのである。


素人が書き始めようとするとき、
「思いついた!」と、ひとつのアイデアではじめようとする。
精々数個のネタでアドレナリンを出そうと頑張る。
ひとつが切れたら次々に投入することで勢いを持続しようとする。

しかしそれは、長編映画の要求に、全然足りないのだ。

たとえば、ブレイク・シュナイダーの提唱する「ボード」
(著書「save the catの法則」参照)では、
40のアドレナリンを要求していることと同じだと、僕は思う。



勿論、危険以外のアドレナリンもある。
この場合エンドルフィンかも知れない。
うっとりするときだ。
好きな人が出ていれば、糞映画でも見続けられる理由がこれだ。
知的興奮、パズルが解けていくとき、
などにもこれは出るかも知れない。
まとめて脳内麻薬と言っていい。
つまりあなたは、
40の脳内麻薬と、その繋ぎを用意しない限り、挫折する。


40は極論で、多いような気もする。
3分に1回は多くね?とも思う。
小さいアドレナリンもあれば大きなアドレナリンもあるだろうし。
にしても、倍もいらないし、半分では足りないので、
概算としてはいい数字だ。

勿論、これらがなんの関係もないランダムなアドレナリンでは、
ただのパラノイアだ。

映画とは、因果関係をもつ、一連の、
40種類のアドレナリンとその繋ぎのことである。
posted by おおおかとしひこ at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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