2015年02月24日

エチュード4

我々脚本家にとって、
2.の意味のエチュードは、意味があるだろうか。

おおありだ。


俳優は、当たり前だが、
自分の中に役をリアルにするために、エチュードをする。
脚本に書かれていない台詞以外を言うときはどうだろうかと。

仮にコンビニに行く場面がなかったとしても、
コンビニに寄るときは、
どういう導線で何を買ったり見たりするだろう。
袋はいいです、と言うだろうか。
それを、いかにもその役らしく演じるのだ。
仮に電車に乗る場面がなかったとしても、
仮に風呂に入る場面がなかったとしても、
仮に喧嘩する場面がなかったとしても、
などなど、ネタはいくらでも作っていける。

役者が、他人の作った架空の人物を、
架空から実在のレベルにするための、
それは想像力を鍛えるのだ。
もし脚本上が不自然だったとしても、
これをきちんとやることで、
自然な(矛盾や大袈裟のない)役を演じられるようになるのだ。

下手な役者は、例えば語尾をキャラ立てしようとする。
「なんとかきゅるん☆」みたいにだ。
そうすればそのキャラになりきったような気になるからだ。
これはリアルだろうか。
否だ。
リアルなのは、オタサーの台本の時だけだろう。
リアルに、「語尾を固定することで自分らしくする人」はいない。
会社にも家庭にもだ。
なんとかじゃ、というじいさんはいるが、
それは方言である。その時代のその国で話されていたリアル言語である。
その言葉を話す人は全員なんとかじゃ、と言うのだ。

リアルな演技というのは、
言葉ではない。
気持ちである。
この人はこのような設定上、このような育ちをしていて、
今このような動機があり、
(或いは隠された動機も持っていて)
このような気持ちで今ここにいる。
その時の、
昼休みや、コンビニや、駅や風呂では、
その人は台本には描かれていないが、
どのように生きているだろうか、
という想像のために、エチュードをするのだ。

分かりやすくしてみよう。

明日好きな子に告白しようと思っている男がいる。
その男は、コンビニのつり銭をもらったとき、
その女の人の名札を何気なく見て、
告白する予定のその好きな子と、
同じ名前だと言うことに気づいたらどうするだろう。

それを即興でやるのだ。
手を握られたらもう大変だ。
或いはポーカーフェイスを貫き、コンビニから出たときにぜーはーするかも知れない。

二時間後自殺しようと思う人は、
コンビニのプリンを見て、何をするだろう。
自殺の理由にもよるだろう。
世の中に絶望したからか。プリンは絶望か。
振られたからか。あの子のおっぱいはプリンか。
それらを、即興で考えることによって、
役への理解を深めるのである。



これが複数の人格を使い分ける、
脚本家に有効でない訳がない。

それぞれの役が、エチュードでスムーズに出てこないのなら、
それはあなたの中で、まだ登場人物がリアルになってないということである。
全員がコンビニのプリンを見て、
思うことやすることは、
バラバラな筈だ。(シンクロする人物もいるかもしれない)


ここで、二次創作を突然眺めてみよう。
SSなどの二次創作は、
殆どが、「本編の○○と△△の間にあった(かも知れない)こと」
として書かれることに気づこう。
つまり、二次創作はエチュードなのだ。
登場人物(たち)が好きすぎて、
エチュードするぐらい妄想が膨らんでいることが、
その創作目的なのである。

その時に語尾だけを真似するのは、二次創作でも何でもないことは、
火を見るより明らかだ。
その人がしそうなこと、その人が言いそうなこと、
その人がリアクションしそうなこと、
その人が思いそうなこと、
二人の関係にありそうなこと、
三人の関係にありそうなこと、
などなど、本編にないことを妄想することが、
二次創作すなわちエチュードなのだ。

二次創作の場合は小説や漫画にする。
エチュードは即興劇をする。
二次創作の場合は元になる漫画やアニメやその他。
エチュードの場合は元になる台本。
二次創作の場合はお気に入りの複数キャラ。
エチュードの場合は自分の役。
その差だけなのである。


二次創作まで出来れば、創作(一次創作)まで半分の道のりを来たことだと思う。
オリジナルの人物と、オリジナルの世界と、オリジナルのストーリー(事件)を、
あとは思いつけば、
複数のキャラのエチュードの能力はあるはずだからだ。
(この意味で、二次創作は創作ではない)

あなたにオリジナルの人物と、世界と、ストーリーを考えつく能力があったとしても、
エチュード、即ち、人物をリアルに実在のように想像し、
目の前の場面で実在のように動かすことが出来ない限り、
それは面白くならないだろう。


二次創作は、エチュード自体が目的になっているから、
登場人物の目的は何でも良かったりする。
むしろ本編を邪魔しない、
些細な目的なことが殆どだ。
だから、山なし落ちなし意味なしになるのである。
それ以外のやりやすい「目的」がひとつあって、
それはエロだ。
二次創作が18禁ばかりになるのは、
エチュードというものの持つ運命なのかも知れない。

エチュードをする役者同士が、役の上で好きあうとして、
エチュードとしてセックスすることはあり得るか?
まあ、それがキャスト同士が付き合う、ってことだろうね。
役と区別がつかなくなることは、
役者として正しいとも思えるし、
役と現実を分けられない、
役者失格とも思える。
(幸い、自作でそれはないので、その時の嫌な気分は味わっていないが)
posted by おおおかとしひこ at 12:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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