2015年02月24日

映画と小説の違い:小説は、思考が漏れる

小説にあって映画にない強力な武器は、地の文である。
小説では、これによって思考を漏らすことができる。
映画では、思考を漏らすことが出来ない。

思考を漏らす例。


小説版「てんぐ探偵」の第一話を、
リライトしようとしている。
その意図に関しては、ちょいちょい漏らしている。
それはこの際どうでもよくて、
リライト版第一話「炎の巨人と黒い闇」(改題)の、
冒頭のシーンは、大体以下のようにするつもりだ。


----引用ここから----

なぜ人は闇を覗きこみたがるのか。自分の中に、闇があるからだ。

シンイチが振り向くと、そこに大天狗がいた。巨大だった。
ジャングルジムに座っていて、ジャングルジムより大きかった。
熱い。熱風がシンイチの体を包んだ。炎だ。大天狗の全身から、
手足に沿って炎が出ているのだ。
赤い、岩のような顔がシンイチを覗きこんだ。大きく見開かれた
金色の鋭い瞳が、シンイチの胃袋の底まで突き通す。巨大な鼻が、
ゆっくりとシンイチを指差している。
大天狗は掌から火の玉を出した。それは火柱となり、上昇気流に
揉まれて炎の竜巻になった。ますます炎の風が強く吹く。
「天狗よ、熱いぞな」ネムカケがたしなめた。
「すまぬすまぬ。慣れぬ都会で上手くいかぬ」と大天狗は掌を握った。
「火よ、伏せよ」
ぴたりと炎がおさまった。陽炎の中から天狗の赤い体が姿を顕す。
隆起した筋肉。丸太より太い手足。もじゃもじゃと生えた剛毛は、
まるで炎の跡のようである。
「では、その闇を斬ってみよ」
大天狗は、シンイチに向かってそう言った。

シンイチは訳が分からない。一体なんなんだ。何が起こってる?
これが、シンイチと大天狗の出会いであった。

----引用ここまで----


さて、これは映画にない、
地の文による「思考が漏れる」例が多数含まれている。

まず冒頭の一文。正確には二文。

 なぜ人は闇を覗きこみたがるのか。自分の中に、闇があるからだ。

これは、このシーンの登場人物、
大天狗、シンイチ、ネムカケの、誰の思考でもない。
強いて言うなら俺だ。俺の思考が漏れているのだ。
映画でやるなら、ナレーターによる天の声だろう。
これは、この物語全体のテーマについて語ろうとしている。
世の中のある真実についての、ほぼ俺の意見を書いている。
(絶対真実ではないが、真実と思えること、というのは、
良いテーマの条件だ、と書いた)
勿論これはテーマそのものではない。
しかしこれから起こる大冒険の、ある種のテーマ的なものを内包する考え方である。

映画にはこれはない。
小説に出来ない映画独自のやり方はある。
それは、文字で書けない、
美しい風景ショットからはじめることだ。
もしこの風景が、物語全体やテーマを象徴することが出来れば、
それはこの冒頭文と同じことをしようとしているのである。
(例「刑事ジョンブック/目撃者」は、
特殊な宗教団体アーミッシュの村の収穫風景からはじまる)

他にもある。物語全体を象徴する小物からはじめる。
「指環物語」は、流石に指輪からはじめてるよね?
「ニューシネマパラダイス」の冒頭は、
風の強い日、カーテンの上に置かれたワイングラスからはじまる。
風が強くてグラスがひっくり返りそうで返らない。
これは人生の象徴であることは分かるのだが、
本編と関係ないものでの象徴なため、
全く記憶に残らない、下手な冒頭である。
(記憶に残らなすぎて、別の映画だったらごめんなさい)

また、最初に書いたように、
ナレーションを被せるのはよくあることだ。
登場人物の誰でもないナレーターは滅多になく、
大抵は主人公の独白からはじまる例が多い。
スタンドバイミー、アニーホールなど、
思索の深い作品によく似合う冒頭である。


次の「思考が漏れる」例を。

 金色の鋭い瞳が、シンイチの胃袋の底まで突き通す。

このような比喩表現は映像化できない。
(CGで、金色の目から出たビームをカメラが追い、
シンイチの口から入って胃袋のCGに達し、胃がぎゅうっと縮む、
なんて直接表現は可能だが)
これはあくまで恐怖で動けなくなっていることの表現だ。
シンイチの思考が漏れている。
正確に言うと、シンイチは自覚的に「胃が縮む」と思っているわけではなく、
シンイチの恐怖を感じている俺の思考が漏れている。
このような思考の漏れ方は、映画には出来ない。

迫り、光る金色の目→恐怖で動けなくなるシンイチ、
というカットバック表現になるだろう。
ガタガタ震える足なんてインサートも入るかもしれない。
縮む胃がインサートされることは普通ない。
(キモイから。しかしこれが胃にまつわる話がメインなら、
必ずインサートされるだろう)

 上昇気流に揉まれて

擬人化表現。上昇気流は揉めない。
映像表現では、上昇気流と炎を撮ることは出来る。
まるで揉んでいるような瞬間を編集で使うことは可能だが、
見る人全員が上昇気流が揉んでいるかどうか、感じることは出来ない。
つまり、炎を見る俺の思考が漏れている。
シンイチの思考かも知れないが、文脈的にそこまでシンイチに余裕はない。


 もじゃもじゃと生えた剛毛は、まるで炎の跡のようである。

これも同じく比喩表現だが、炎の跡みたいだ、
と思うのはシンイチに見せかけた、俺だ。
なんだ、俺の思考がだだ漏れではないか。
その通りだ。
小説の地の文は、思考が上手にだだ漏れになる、娯楽だと思うのである。
「客観的に今起こっていること」に、
ちょいちょい合いの手を重ねて、
ひとつの「俺が書いた解釈」を書くことが、小説に可能なことなのだ。


 一体なんなんだ。何が起こってる?

これはシンイチの心の声だ。
厳密な小説作法ではこれは駄目だと言われるだろう。
現実には許容範囲だと思う。短いし。
心の声も、小説にあって映像にはないものである。
これを台詞で言う?ぎりぎりなくはない。
しかし子供が言う?言わないだろうね。
これも、思考が漏れている例である。



最近小説の書き方が分かってきた、
とちょっと書いたのは、
小説にはこのような、思考を漏らす表現が出来ることに気づいたからだ。
これ、映像に比べて超楽なんです。
俺の観察をそのまま美文にすればいいんですよこれ。
客観的に起こっていることにちょいちょい混ぜて、
俺の思考に沿わせるんですよこれ。

三人称形で描かれる映画には、
これはない。
冒頭文は誰かが言うか、ナレーターだろうが、
この場面には不適切だろう。
比喩表現を絵でそのように写すことは、
絵作りをちゃんとやっても言葉通りのイメージに100%近づけない。
何故ならこの言葉で想像する絵は、全員違うからだ。
シンイチの思考は、この場面では難しい。
びっくりして焦っている芝居は出来る。

小説は、思考を漏らすことが出来る。
映画は、出来ない。

この差を知っておくと、彼我の差を考えるときに役に立つ。


(ちなみに引用したこの文章は、また書き直すかもしれない。
あくまで発表前の草稿ということで)
posted by おおおかとしひこ at 11:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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