2015年02月25日

面と向かって対面する

面と向かって対面することって、
普通の生活である?

なかなかないと思う。
僕は大学の時喫茶店に好きな子を呼び出して告白したことあるけど、
そんな緊張感ある、面と向かった対面はもう嫌だ。
(ちなみに駄目だった)
今の子たちは告白も別れもラインだったりするだろう。
面と向かって対面して、しかも成功することは、
人生に何回かしかない大イベントかも知れない。
(例:就職面接、会社を辞めるとき、別れ話をするとき)

にも関わらず、脚本の中に、
安易に「対面して話す」なんてシーンをばんばん書いてやしないかい?


人間の対面法には三種類ある。
I型、L型、A型だ。
I型は面と向かった対峙、
L型は90度で対面する時、
A型は並んで同じ方向を向く時
(カウンターに座る、柵にもたれて、ベンチ、車の中など)。

口説くときにI型は駄目だ。相手が身構えるからだ。
愛し合ってるならI型がいいだろう。
しかし物語とは、異なる者が混ざりあう過程だから、
愛し合う二人が出てくるのは、ラストのハッピーエンドか、
崩れる前提の冒頭しかないことになる。

従って、I型の配置が映画に出てくるときは、
殆ど必ず敵意がある時だ。


自分の人生を振り返ろう。
そんなに対面して敵対する?
なるべく避けようとするだろう。
それがリアリティーだ。

そのリアリティーに従って、きちんと作劇をしてるだろうか。

それでもどうしても対面しなきゃいけない理由を、
作っているだろうか。
なるべくなら面と向かわなくてもいいようにしたい所を、
どうしても面と向かわなきゃいけない、
リアルな理由を創作しているだろうか。

ここにリアリティーが伴わない限り、
「面と向かって話をする」は、嘘臭いのである。


良くできた脚本では、
喫茶店で対面したとしても、
目をあわせて話すことを避ける仕組みをたくさん作る。
コーヒーを見る、煙草を吸うなどは基本だ。
(昔の脚本では必ず角砂糖をいくつ入れるかという会話と、
天気の話で窓の外を見ていたものだ)
書類を二人で見ても目をあわさずに済む。
窓際の席で、窓の外を二人で見てもいい。
(体はI型でも、心的にはA型の配置になる)
野球を観戦しながらふと本音を漏らす、なんてのはよくあるよね。

ワンシーンずっと目をあわせて会話なんか、
する訳がない。
たとえI型の配置が強制されても、
目をあわせるのは、全部で十秒程度といったところだろう。

むしろ、横並びのA型のほうが、
本音を漏らしやすくなったりするものである。
(実は風魔では、縁側が巧みにその配置を作る役割をしている。
市野さんは食卓を囲むことでI型配置を避けるのが上手な人だ。
僕は縁側を良く使った。風魔は、食卓と縁側のドラマでもある)
静止してなくても、歩きながらとか。


巧みな脚本は、台詞や動作だけではなく、
その身体的配置にまで気を使うものである。
だって面と向かうのは、不自然だもの。

L型配置はあまりないが、一方が立って一方が座るなどの変形で現れやすい。
台本に書きにくいからかも知れない。
逆に言うと、演出とは、
会話から判断して、人物の配置を、
I型か、非IすなわちAまたはLかを、
現場に合わせて決めるところからはじめるものだ。
あるいはきっかけをつくって、配置を変えたりして文脈をコントロールするのである。


逆に喧嘩が多い台本なら、
立って二人とも言い合う場面が多いかもね。
アメリカ映画には多そう。

日本の映画なら、一人は立って、一人は座って、とか、
どちらかを上座にするとか、
そういうアシンメトリーな配慮があるはず。
それは、日本人が目をあわせて対面するようなリアリティーを持っていないからだ。

目をあわせて対面しないからといって、対立がないわけではない。
むしろ、体が対面していないのに、
心の中身はバチバチしている。
そのようなリアリティーが、我々のリアリティーではないだろうか。


そして脚本は、そのような対面のリアリティーを、
常に持っていなければならない。

下手くその脚本は、すぐ面と向かって対面する。
そんなわけないやん。
posted by おおおかとしひこ at 02:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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