今回からしばらくテーマについて書いてみます。
今までと被る内容もあるけど、まとめとして必要なので勘弁してください。
でははじまりはじまり。
あなたには、言いたい主張があるから、
それを物語にするのだろうか。
それは間違いだ。
主張をテーマにすることは、
物語とは、違うことをすることだ。
日本の国語教育は「言いたいことを言葉にすること」
を主に行っている。
それを直接話法ということにしよう。
出てきた言葉と、あなたの言いたいことは、
100%同じであることが望ましい。
嘘をついたり、誤解を招いたり、間違った言葉を使ってはいけない。
無駄があったり紆余曲折があっても、良くない傾向だ。
それは、報告文(レポート)、論文、説明文を、
書けるようになるための教育である。
虚偽や間違いや贅肉は、悪である。
あなたの主張や事実関係が、100%言葉になっていることが理想だ。
報道、仕事、マニュアル書きなど、
人生の多くの場面で、これは是非とも必要な能力である。
しかし、これは直接話法である。
物語は、間接話法だ。
これを間違えてはいけない。
「この話で作者が言いたかったことは何か」という問題は、
直接話法なら正解が存在する。
言葉や表現としてバリエーションがあっても、
100%の答えはありうる。
ある程度の要素を備えていれば満点とする、
という採点基準をつくればよいからだ。
これは、客観的正解基準がつくれるため、
テストを作成して採点することができる。
これが国語のテストであり、客観テストという名前の由来だ。
(センター試験の選択肢を選ぶ基準は、
本文にあるものを選ぶことであって、
世の中の真実を選ぶことではない。
本文に客観的に存在するかどうかを把握する能力が、
「読解力」のテスト的な定義だ)
一方、間接話法には、100%の正解などない。
分かりやすいのは皮肉かな。
言っている言葉と、指し示している内容が真逆。
この意味で、客観テスト100点だと真逆になる。
「成る程、良いところに目をつけましたね(そんなもん今頃気づいたのかボケ)」
「分かります(全然違うわボケ)」
「今日の服可愛いね(このブス)」
「ごめん今日親が来るから無理(二度と誘ってこないで)」
「休みの日とかなにしてんの?(誘いたいな)」
など、現実には、言葉とその指し示す意味には、
大きくズレがあることがある。
これが間接話法だ。
これだとややこしくなるから、
まずは直接話法を鍛えよう、というのが国語教育の正体である。
現実の複雑なものを、
理想的状態に次元を落として扱えるようにするまでトレーニングする、
という意味では、
「摩擦はないものとする」という物理学の教科書と同じ方針なのだ。
国語教育の成果が上がった人ほど、
「素直な」人になるのではないだろうか。
言葉と意味があってるから、裏を考えなくていいしね。
(それに気づいた偏差値の高い人は、皮肉や嘘が上手になる)
ところが、現実はそんなものではない。
間接話法と、嘘と間違いと誤解の巣窟なのである。
物語は、そんな世界を扱う対象にする。
その面白さを、競うのである。
もしあなたに主張があって、
それを物語にするとするならば、
それはプロパガンダという、演説の一ジャンルである。
それは巧妙な言葉で綴られた、直接話法の変形だ。
第二次大戦では、多くの物語作家が、
プロパガンダに協力させられた。
最近でも、ステマという形でプロパガンダは復活している。
道徳教育や新興宗教の胡散臭さは、
物語をプロパガンダとして使っている胡散臭さだ。
そしてステマの不気味さもそれだ。
物語に主張はあるか?
直接話法的にはない。
間接話法的には存在する。
物語とは、事件の解決のことである。
その解決の仕方が、世の中への態度を示し、
それが「結果的に」、何らかの主張をしているであろうことを、
物語のテーマという。
汚いところを掃除して解決するならば、
「綺麗なところはいい」「掃除は素晴らしい」「汚す奴は許せん」
である。
これは映画「風の谷のナウシカ」のテーマである。
地球環境汚染と蟲たちが最初は一体と思わせておいて、
人類が悪であり蟲たちは浄化の徒であった、
という逆転のストーリーは、
「汚す奴は許せん」
というテーマを浮かび上がらせる。
「綺麗なところはいい」「掃除は素晴らしい」もだ。
つまり、間接話法が示すものは、
必ずしもひとつとは限らない。
直接話法ではこれは怒られる。
複数の意味に取れるものは間違いや誤解を招くから、
やめなさいと。
しかし間接話法では、テーマは色々あって、
複数あってよいのである。重なったりしても良いのだ。
ただし。
ひとつの強いものに収束するものは、
分かりやすく、キャラがはっきり立つ。
だから、頭のなかでこんがらがらずに扱いやすい。
「テーマを絞れ」とか、「分かりやすいテーマに」
というアドバイスは、そのことを言っている。
しかし、間接話法には、
そもそもテーマは一つとは限らないし、
複数が微妙に重なりあうことはよくあることだ。
映画「風の谷のナウシカ」と、
漫画「風の谷のナウシカ」は、
実は両者でテーマが真逆になる、稀有な例だ。
それは、問題と解決の、解決が示している。
原作の衝撃のラストについては意外とマイナーらしいので、
(僕らの世代は全員知ってるのに!)
ネタバレを防ぐためここでは深く追求しない。
大きめのまんが喫茶などで是非目撃されたい。
テーマは、解決が間接的に示す。
これが物語のルールである。
逆に、解決が間接的に示すものが、
物語のテーマと定義してもいい。
ラストになって急に主張する、
下手くそな物語がある。
うんこ実写キャシャーンとか。
それは、直接話法と間接話法のテーマを混同した、
初心者の脚本である。
テーマが主張になるのは、直接話法のときだけだ。
物語は主張しない。ただ間接的に暗示するのみだ。
もっと言うと、直接話法と間接話法のテーマは、
同じ言葉で違うことを指している。
読解や解読が流行るのは、間接的なものから、
中にある何かを読み取りたいからである。
さて。
テーマは主張ではない。
また、作者が巧妙に、主張を暗示的に埋め込むことでもない。
(中世の弾圧を避けようとしたものには、
物語形式でそれを保存しようとしたものもある。
それは一種のプロパガンダ、ステマだ)
では、テーマを先に決めてから、
物語を書き始めるべきだろうか?
次回につづく。
2015年02月26日
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