初心者向けの多くの物語の指南書には、
「テーマを決めてから書こう」というのが良くある。
僕はこれは間違いだと思う。
正確には、半分はあっているが、
半分は間違いだと思う。
テーマを決めずに書くことの危険たるや、
考えるだけで怖い。
絶対座礁する。
途中でなんとかなるやろ、という楽観は、
100%暗雲に変わる。100%だ。
計画のない執筆は、書けば書くほど、物語はカオスになる。
物語というのは、ある種の秩序を持っていなければならない。
それは、現実がカオスすぎるからである。
カオスな現実が見せる、
ほんの一瞬の秩序を描くのが物語だ。
カオスをカオスのまま描くのは物語ではない。
(極端な例では、統合失調症の人が書く物語を見るとよい。
その暗闇に持ってかれないように。
商業作品では、古谷実の後期作品ほどその色合いが強い)
物語とは、
現実のカオスを、ある解釈に基づいて秩序立てたもののことをいう。
この「ある解釈」が、テーマに関係していることは明白だ。
ある解釈、と言っても色々あるが、
それを「仮のテーマ」ということにしよう。
映画ナウシカになぞらえれば、
「人間は環境汚染をする悪である」みたいなことを、
仮のテーマとしてみる。
これによって、腐海、戦争する人々、腐海の蟲たち、
そして蟲こそが浄化しているというどんでん返し、
などなどのアイデアが、
秩序を持ってならび始めることになる。
仮のテーマが先か、腐海と蟲のアイデアが先かは、
宮崎駿本人に聞かないと分からないが、
とにかく、仮のテーマを持てば、
描くべき世界は秩序を持ち始める。
浄化対人の愚かしさという対立構図も明白になるし、
自然と共生する小さな王国と、
機械文明に頼り戦争を拡大し続ける帝国という対立構図も明白になる。
それが探し求めている究極兵器のアイデアもじきに出るだろう。
(腐海を焼き払う、火の七日間を起こした巨神兵のことだ)
蟲たちを暴走させて戦争を有利に進める、愚かな戦術についても、
思いが至るかも知れない。
その運命に立ちはだかる一人の少女、
と、カオスは仮のテーマを与えることで、
次々に秩序立って行く。
これが仮のテーマがないと、お話は方向性を確実に見失う。
蟲と戯れる王女とか、
戦争する敵の王女とか、
でかいガンシップとか、
そんなものだけが先にあっても、
そこから「何をしていいか分からなくなる」はずだ。
(バードスーツのキャラありきの、
うんこ映画実写ガッチャマンが、そのようにして、
何をしていいか分からずにストーリーが迷路に入っていったことを思いだそう)
仮のテーマがあることで、
善悪のコンフリクトや、目的が生まれやすくなるのである。
人類が悪だ、が仮のテーマなら、
トルメキアは、科学技術を過信して世界を汚染し続ける、
「コナン」のインダストリアと同じ目的を持つ帝国になる。
風の谷はそれに巻き込まれる形で、同盟に参加させられる、
なんてストーリーが出来上がってゆくだろう。
そしてこの仮のテーマがあるからこそ、
映画版には、原作の粘菌や蟲と生きる人々は登場しない。
仮のテーマに沿わないからだ。
このように、仮のテーマは、
カオスから秩序を生み出し、不要なものをはじく力を持ち、
益々秩序を強固にする力を持っている。
サブテーマとして、
人類全体が愚かだとしても、クシャナ個人はそうでもない、
しかし今さら引き返せない、
などのサブプロットをつくって行くことが可能だ。
サブプロットは、(仮の)テーマに対して、
対比的になるから存在の意味があるのである。
サブプロットは、テーマに対して厚みをこのように与える。
原作の粘菌のサブプロットがないのも、
そのサブプロットは、テーマに関係していないからである。
これらの意味で、(仮の)テーマを先に決めることは、
書く者にとって強力な力を持つ。
これがあれば、最後まで書けそうな気がする。
作者がカオスに陥らず、秩序立てていく力や、
その秩序の根拠を与えるのである。
だから、多くの初心者向けのマニュアルは、
「先にテーマを決めよ」と言うのである。
しかしこれは、良く考えてみると、
直接話法の文章を書くときのやり方だ。
主張を先に決め、
まず主張をし、論を展開し、最後に主張で締める、
直接話法の考え方である。
物語のテーマとは、主張ではない。
では、仮のテーマでない、本当のテーマは何か。
仮のテーマと本当のテーマは違うのか。
次回につづく。
2015年02月26日
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