2015年02月27日

テーマとはなにか3:本当のテーマ

仮のテーマを設定することによって、
プロットや執筆は、秩序を保つことができる。
簡単にはカオスに陥らないようになる。

ログラインを書くこと、
プロットを最後までつくってから執筆をはじめること、
ボードをつくること、色々な一覧表や地図をつくることなどは、
カオスに陥らないための方法であり、
それは全て仮のテーマに従うようにするとよい。


ところが、実際に執筆をはじめると、
不思議なことが起こるのである。


仮のテーマは、所詮仮だったような気がしてくる。
特に後半だ。

深く深く登場人物たちの無意識に潜るほど、
感情移入が進めば進むほど、
本当のテーマとはこういうことだったのではないか、
と、
仮のテーマよりも更に深いテーマに至ることが、
とても多いのだ。

それは、きっとあなたの無意識だ。
あなたが世の中のことをどう考えているかに、
それは物凄く関係ある。
あなたが世の中に対して思うことが、
それこそ無意識的に、物語世界に投影されるのである。

書き終わって初めて気づくはずだ。
そうか、俺が本当に書きたかったのは、こういうことだったのか、と。


書き始める前の仮のテーマと、
書き終えた後に現れるテーマを比較しよう。
後者を本当のテーマということにする。

本当のテーマは、仮のテーマの中に大きくは含まれる。
全く違うことになることはない。
(全く違ってたら、仮のテーマに従ってつくった秩序か、
本当のテーマの、どちらかが間違いである)

仮のテーマが、実際にディテールの執筆を経ることで、
あなたの中のひとつの「現実」となり、
あなたの考える現実とどこかでリンクし、
より深く、より多彩に、より広範囲になった、
と考えられるのである。
(テーマはひとつとは限らない)


自分の例を、またも風魔の小次郎から。

書く前には、仮のテーマはあった。
「小次郎の成長」である。

少年の成長は、所属団体におけるアイデンティティー、所属を得ること、
ということを、描こうとしていた。
有り体に言えば、「小次郎が半人前からいっぱしの風魔忍者になる」だ。
(その意味で、12話の「ゆくぞ風魔の小次郎!」は、
計画通りに言われた台詞である)

しかし書いているうちに、
ただ風魔になるだけでは詰まらないことに気づいた。
「小次郎なりの忍びの在り方」のほうが、
面白いことに気づいたのだ。

主君の為に己を殺すことが伝統的忍びだとしたら、
小次郎の個性を殺して戦闘マシーンになることがテーマなのではなく、
(原作の小次郎は、風林火山以降戦闘マシーンだ)
小次郎っぽい「新しい形の忍び」を示すことが、
この作品の真芯だと気づいたのだ。

なんとなく、父越えはあるだろうなと予感していた。
(この場合の父=集団の旧来の価値観の代表は、勿論竜魔だ)
ところがそれを具体的に新しく言う、
「新しい形の忍び」という言葉は、本当に13話の執筆中、ラストシーンを書いているときに、
本当にぽろりと出てきたのである。
しかも当の竜魔から。

これは、狙ってやったことではない。
僕の無意識がやったことだ。

単なる戦闘マシーンになることが、
真の成長だろうか、
旧来の価値観と、自分の強烈な個性とを、
上手に融合していくことこそ、
本当の成長ではないか?
と考える、僕の無意識が、
実際の言葉として結実したのである。
(10話の告白の時の考え方、遡れば6話の墓をつくる行為、
遡って2話の何故蘭子は闘うのか、
この辺りのことを、全て一言に集約した言葉だと言える)

また、風魔のテーマはひとつではない。
「絆」もまたテーマである。
仲間やその生死を扱うドラマなのだから、
それはテーマになって当然だ。仮のテーマにも、多分含まれていた。
しかしその言葉は、 12話の名場面、
風魔が全員現れる場面で、初めて確認されることになる。

これがベタなら、円陣組んだりハイタッチしたりなどの、
その辺にありそうな描き方になっていただろう。
ところが小次郎がついにぶったぎった灯籠を境に、
生きている者と死んでいる者が対面し、
言葉を交わし会うという、
恐らくどこででも見たことのないオリジナルの場面は、
絆という仮のテーマから決して生まれることはない。
それまで全てを書いてきたからこそ、
書ける場面だ。
「ああ。俺達は風魔だ」は、だから、絆というテーマを示す、
最高の台詞のひとつだ。
(ここで間接話法を思いだそう。誰一人絆と言っていないことに気づこう。
俺達は風魔だ、の台詞がそれを間接的に表現している)
勿論、その直後に、竜魔が「風魔の小次郎」と小次郎を呼ぶことで、
絆や成長という仮のテーマは、
ここに昇華を迎えるのである。

その後の「新しい形の忍び」こそが、
これまでやってきたこと全てを包括する。
これは、全部を書かないと、書けない言葉のような気がする。
「新しい形の忍び」を仮のテーマにしてしまったら、
多分滅茶苦茶なストーリーラインになってしまったかもだ。



本当のテーマは、
仮のテーマに従って、
具体的に最後まで書いたときに、
ようやく仮のテーマの中から、
姿を変えて現れる。

それは恐らく、仮のテーマと、あなたの無意識の融合なのだと思う。


だから、
あなたが今世の中をどのように見ているかが、
重要なのだ。それは無意識に作品に出るからだ。
もっと言えば、
仮のテーマが、よそゆきのあなただとしたら、
本当のテーマは、無意識の、隠しきれない、本当のあなただからだ。

文学は、だから怖いのだ。
誰にも見せてなかった、あなたの本性が、
物語世界と重ねあわさって、出てきてしまうのだ。

だから、あなた自身が、きちんとしてないとダメなのだ。



本当のテーマは、だから、
最初に知ることは出来ない。
仮のテーマを設定し、
あなた自身が最後まで経験することでしか、
たどり着けないものである。

リライトとは、
そこまで到達出来たあなたが、
それをまた仮のテーマだとして、
最初から秩序を整理し直すことに相当する。
第二稿以降で本当のテーマが大きく変わることはないだろう。
精度がより高まっていくだけのことだ。


他人とやる脚本打ち合わせが、何故困難なのかについての、
答えがこれだ。
あなたは、書く前から本当のテーマを分かってないのだ。
にも関わらず、仮のテーマを提出し、
それについて人々と話さない限り、
書き始める許可が出ないのである。
そして書き終えた頃には、最初の共有より、
更に進化している。
もしそれが、最初の打ち合わせと違うとか、
思ったものと違ったとかになったときが、
ややこしいのは、火を見るより明らかだ。


映画の宣伝が何故うまくいかないのかもこれだ。
宣伝部は仮のテーマで動き、
本当のテーマまで、読解しきれていないのである。
だから、俺がどんなに力説したって、
「いけちゃんとぼく」のテーマは、「大人のラブストーリー」という、
自分達のずれた解釈から進めなかったのである。



さて。
間接的にしか表現出来ない、
ということは本文に一文字も書いていない、
しかも、たったひとつに絞られず、
複数あったり重ねあわさっていたりする、
テーマとは、どのような形をしているものなのだろう。

次回、テーマはテーゼの形をしている、
につづく。
posted by おおおかとしひこ at 01:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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