映画「いけちゃんとぼく」の、
キャッチコピーはどうあるべきか。
これを考えることは、テーマとはなにかを考えることだ。
(今のところ)ベストと思われるコピーを、
先日書いてみた。
わたしね、きみが大人になる日を見にきたの。
とてもいいコピーだと思う。
優しいいけちゃんの声で再生されるし、
ネタバレを回避しながら、テーマの芯の所を突いている、
しかも、見たあとの人にも刺さるからだ。
(未見の方、重大なネタバレにつき以下は見てからどうぞ)
原作「いけちゃんとぼく」を、まずは解剖してみることにする。
原作の最も凄いところは、ラスト数話である。
主人子のぼくと一緒にいたふしぎないきもの、
いけちゃんは、未来から来たのであった。
その正体は、ぼくの晩年の恋人。
少しだけしか一緒にいれず、
子供の頃の恋人に会いに行きたいという願いを叶えて、
やってきたのだ。
だから、ぼくが大人になると消えてしまうのである。
(大人になることの具体は、原作には示されていない。
ラスト、大学生で恋をする、という別の現実の女の登場以外は)
これは、作者サイバラの実体験の反映であることは、
サイバラファンならば誰もが知ることだ。
サイバラとは、特異な漫画家である。
自分の無茶な生活をネタに、ひたすら書き続ける人だ。
破天荒なダンナ、鴨ちゃんと結婚し、
ハチャメチャな生活を送り、
その血を引いたハチャメチャな息子たちを描く。
(作品は多作な人なので、その概要は、
「鳥頭紀行」「毎日新聞かあさん」あたりが比較的集められている)
ところが、鴨ちゃんが癌で亡くなる。
サイバラは毎日書いてた漫画を半年休んだ。
その時の作品だ。
明らかに、ぼくは子供の頃の鴨ちゃんだ。
いけちゃんはサイバラ自身だ。
(「いけちゃんとぼくのあとがき」という漫画に、
息子が鴨ちゃんに似てきて、鴨ちゃんの子供の頃に今会っているのだ、
と思うような事が書いてある。
これが発想の原点かも知れないし、あとで出てきた本当のテーマかも知れない)
サイバラの愛は、女的というより、母性として描かれることが多い。
高知人の特性かも知れないし、恥ずかしいと本人は思っているかも知れない。
(いつ付き合ったのかを、絶対彼女は明かさない。
かならずいつの間にか、ということにする)
だから、いけちゃんは、母性を強くもつ。
サイバラは初期作品「ちくろ幼稚園」(かな?竹本君と何とかだっけ)
のラストでも似たようなことを書いている。
男の子が故郷の母親のところに帰ってくるラストでだ。
(女は家を出て帰ってこないが、
男は必ず母に会いに帰ってくる、ということを、
彼女は繰り返し書いている)
男の子と母のような関係こそが、彼女にとっての愛の形かも知れない。
この衝撃的などんでん返しが、
原作の全てだ。
それ以前の描写に関しては、他作品で書いていることの、
同工異曲である。
いわば、ラストしか、作品として成立していないのだ。
勿論、巧みな文章力によって、
とても良い言葉が散りばめられ、
白サイバラ詩集のような出来になっている。
これを、一本(あるいは複数)のテーマを持つ、
映画的物語にすることが、
僕の仕事であった。
(このような作品分析を、プロデューサーと共有しなかったのは、
僕のデビュー作ゆえの未熟である)
僕は、軸のないこの物語を、
「主人公ヨシオが大人になる成長」とした。
二つの可能性があり得た。
主人公をヨシオにするか、
いけちゃんとするかだ。
後者にするならば、
婆さんとじいさんの恋愛→じいさん死→タイムスリップ
という話が大枠になる。
それは原作とは異なる、と僕は主張した。
あくまで子供とお化けの話と思わせておいての、
どんでん返しこそが、
この作品の大きな衝撃であり、
今までのことは全て深い愛に包まれた、
理想的な母と男の子の繭のような関係だったのだ、
と分かるところが、素晴らしいからである。
つまりこの作品は、
ヨシオを主人公にしながら、
実はいけちゃんが主人公だったのだ、
という、二重の物語が必要なのだと。
だから、テーマはこのように書かれるべきだった。
(当時はテーマについて、もっと一般的なことしか考えていなかった。
テーマを一行に、ひとつにしようとしては、
やっぱできない原作だ、と悩んでいたのだ)
少年は成長して大人になる。
それを見守り、助ける優しい存在がいるから。
少年が大人になるとそれはいなくなる。
それは、ひとつの大きな愛である。
殆ど母子関係を描くことと同じテーマが浮かび上がってくる。
それを、「少年とお化けの話と思わせておいての、どんでん返し」
というモチーフで描いていることが、
原作の至高のオリジナリティーなのである。
僕の過去の直感を、今ようやく言葉にしている。
言葉は直感にいつも遅れる。
さて、僕はテーマのひとつ、
「少年が大人になること」を主軸にするべきと考えた。
原作にはこれはない。勝手に大人になる。
それは、大人になることを本当には描いていないのだ。
例えば「少年時代」のような、
何かのストーリーをつくるべきだ、と僕は言った。
それが、いじめを克服する話、
もっと言えば「いじめ/いじめられの関係が、
外敵が来ることで団結し、喧嘩し終わったあとに仲間になる」
という、いじめの内向きを外向きにする話だった。
(僕は内向きを、内向的な主人公、
すなわち想像の世界に逃げ込むヨシオが、
イマジナリーフレンドを必要としなくなる話、にしようとしていた。
いけちゃん以外にも、頭の中の小人や妖怪たち、クジラのピノキオ、
南の島からやって来るボラや菩提樹や生まれ変わりなど、
原作に出てくる沢山の想像を、CGで作るつもりだった。
長門挿話も生かすつもりだった。
ところが、その脚本が通ったあとに、3億でつくる映画を、
2億でつくることになってしまったのだ。
1億脚本で減らしてくれ、と言われて、
僕は上手くリライトが出来なかった。今なら多分出来る。
というか、その為に脚本論を鍛えたようなものだ。
だから出来上がった映画には、その残骸と、
手術の失敗した継ぎはぎが散見されることは否めない)
テーマは良くできていたと思う。
原作の本質を汲んだ上で、
足りないところを補う、
風魔でのやり方と同じだ。
ところがところが。
宣伝部がドシロウトだったのである。
彼らの書いたスーパーネタバレうんこコピーは、
コピペするのも汚らわしいので、各自検索されたい。
僕は自分の記念すべき映画デビュー作を、
部屋の壁に貼るのが夢だった。
それを台無しにした、スーパーヘボいポスターについては、
検索すれば出てくるだろう。
DVDのパッケのほうが、まだましである。
(海辺で佇む老人二人のバックショットがそれだ。
DVDのパッケは、いけちゃんとヨシオが堤防でアイスを食っている本編の切り出しだ)
つまり、宣伝部は、
この物語の二重性を理解し、アウトプットに仕上げる知性を持たなかったのだ。
(ちなみにポスターに関しても予告編に関しても、
僕のチェックはなかった。知らぬ間に全て制作されていて、
完成品だけを見せられた。デビューだから舐められていたのだろうか?
今思えば、火をつけてでも抗議するべきだった)
テーマはシンプルな方がいいか?
物語は必ずしもそうではない。
テーマは主張ではない。
主張ならシンプルがいいかも知れないが、
物語は主張ではなく、
人々の問題と解決を描くことである。
そこに暗示される、いくつかの命題がテーマだ。
そして「いけちゃんとぼく」は、そこに二重性のある物語だった。
馬鹿な宣伝部は、それを「大人のラブストーリー」というひとつに縮約する能力しか、
持ち得ていなかったのだ。
さて。
ようやくキャッチコピーの話になる。
キャッチコピーを書くことは、
その物語の本質を捉えることに関係している。
(だから執筆中にキャッチコピーを書くことを薦めている。
自分が本質を把握することに役に立つからだ)
物語の本質を、ごく短く示すといいと思う。
長いのは面倒だし、全然示せてないのは詐欺だ。
しかも、文章そのものの力もある方がいい。
(省エネナンバーワン!は、事実でありキャッチコピーではない)
文章そのものの力があるとは、
その文だけで、
人の足を止める力があるということだ。
何故人が足を止めるかと言うと、
新しいからだ。
ただ新しいのではなく、
それが人の無意識に引っ掛からなくてはならない。
人の無意識とは、なんとなく思っているのだが、まだ言葉になっていないような概念だ。
それを一言の新語を発明するのではなく、
よく知った言葉で、文にするのがキャッチコピーなのだ。
「恋は遠い日の花火ではない」(サントリーオールド)
「オリンピックがなければ、平凡な夏でした」(オリンピック)
など、人をハッとさせるキャッチコピーは、
必ず、そのような時代の無意識を言葉にしている。
物語のキャッチコピーは、
その本質、テーマをどうにかして書くべきである。
ところが、ここにネタバレという障壁が立ちはだかる。
完全なネタバレでは白けてしまう。
本質に届かないコピーは真芯を食わない。
上手いバランス感が求められる。
コツは、実は別の世界のことで例えばなしにしてみることだ。
糸井重里の名作から。
「忘れものを届けにきました」(となりのトトロ)
「落ちこんだりもしたけれど、私はげんきです」(魔女の宅急便)
これは、どちらも本編のストーリーを完全には表していないのに、
その本質を表している、
絶妙なバランス感覚である。
このコピーを読んで受けるなんかいい感じと、
本編を見終えたあとに残る読後感が、
一致するのである。
「カッコイイとはこういうことだ」(紅の豚)や、
「生きろ」(もののけ姫)は、ダメなコピーだ。
そもそも本編がダメなのに関係している。
本編がダメ(テーマが詰まらない)だから、
そのコピーも、面白くないのだ。
この辺りから宮崎駿の作品は詰まらなくなり、
コピーも連動して迷走していく。
そこで、本編以上のコピーをつけることで、下駄を履こうとするのである。
(香港映画予告編ハッタリ)
テーマとキャッチコピーの関係は、
そのようなものである。
違う世界なのに、同じことを言っているのが理想だ。
(竹内まりやは、一時そのような主題歌を書く天才だった)
次善は、同じような世界で、
本編に使われていない言葉で、それを描くことだ。
僕はかつて、「いけちゃんとぼく」のコピーで、
ありがとう。あいしてる。
と書いた。本編を見たあとのキャッチコピーとしてはいいような気がするが、
見てない人にはなんのことか分からないかも知れない。
わたしね、きみが大人になる日を見にきたの。
ならば、見てない人の期待にも答えうる、
いいコピーだと思っている。
キャッチコピーとは、短い文で、
物語のテーマを間接表現するものである。
その意味では、物語とキャッチコピーは、
長い文と短い文という違いさえあれ、
同じことを別の角度からしていることなのだ。
最も良くできたキャッチコピーは、
最も良くできた物語と、
同等の力を持つ。
糸井重里の最初の二本、今回の僕のコピーは、
そのレベルに達していると思う。
そして、これは、
書き終えたあとの、本当のテーマが出てきてからでないと、
書けないだろう。
(ということで「てんぐ探偵」のキャッチコピーは、
いまだに、心の闇を浄火せよ、で止まっております)
2015年02月27日
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