以前にも書いたけど、
さらに実感から仮説を言ってみる。
「人と人が仲良くなるのに、二時間ぐらいかかるから」
というものだ。
飲みでもそうだし、打ち合わせでもそうだけど、
一時間や一時間半では、
必要なことは話せるけど、ちょっと物足りなさが残る。
二時間ぐらい話す(一緒にいる)と、
仲間のような感じが生まれる気がする。
情が生まれるというか、
表面的な部分じゃなくて、
その人の中身に触れられたような、
こちらの中身も分かってもらえたような気がする。
それ以上、たとえば三時間はしんどい。
その時間が、映画に付き合う時間なのではないだろうか。
つまり、主人公の内面を共有し、
彼らと内面が繋がったような感覚を得る時間。
(風魔でも、四話ぐらいかかったよね)
小説版「てんぐ探偵」第30話を書き終えた。
まだ第一稿アップで、これからリライトするため、
皆さんへのご披露はもう少し先になる。
第30話は特別で、かなり大規模な事件が起きる。
夏休みスペシャル枠とか、劇場版みたいなイメージだ。
いつもよりとても長い。
どれぐらいの文字数かはあまり考えずに、衝動のままに書いた。
ラスト、その世界との別れがちょっと辛かった。
でもまた今度ね、とも言える感覚でもあった。
丁度、その世界と仲良くなったような感じだ。
プロットを書いてたときも、執筆中も長さなんて気にしてない。
どうせ尺制限のない自主製作だし。
長いなあとは思ってたけど、楽しさの方が優先的だった。
つまり、長さは僕の無意識が決めた。
書き終えたあとに概算して、
その文字数が映画110分の分量に相当することに、
僕は驚いた。
(まあ、普段の仕事で鍛えられた、時間感覚というのもあるのだろうが。
というわけで第六集は大幅大増ページでお送りいたします!)
人によるけれど、
仲良くなるのにどれくらい話すといいだろう。
自分と相手の内面を、少しでも通じあわせるのに、
どれくらいかかるだろう。
なんとなく二時間というのは、その平均というか、目安のようだと思う。
つまり逆に言えば、
外面だけの映画なんて、ちゃちな子供のものなのだ。
内面に深く入り、
主人公や他の人物と内面を通いあわせたような感覚になるのが、
素晴らしい映画なのだ。
そこで内面的成長をしてカタルシスがあるから、
人は映画を見るのではないだろうか。
「初対面の人と二時間飲んで、
仲良くなったような感じになる、成功した飲み」
のようなものが、
理想の観客と作品の関係ではないだろうか。
詰まらない映画とは、
折角飲みに誘ったのに、ちっとも仲良くならなかったよ、
という失望の感じに近いのではないだろうか。
あくまで僕の感覚だ。
そんなこと言ってる人は、殆ど聞いたことないけど。
2015年03月01日
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