2015年03月01日

映画は何故二時間なのか?2

以前にも書いたけど、
さらに実感から仮説を言ってみる。

「人と人が仲良くなるのに、二時間ぐらいかかるから」
というものだ。


飲みでもそうだし、打ち合わせでもそうだけど、
一時間や一時間半では、
必要なことは話せるけど、ちょっと物足りなさが残る。

二時間ぐらい話す(一緒にいる)と、
仲間のような感じが生まれる気がする。
情が生まれるというか、
表面的な部分じゃなくて、
その人の中身に触れられたような、
こちらの中身も分かってもらえたような気がする。

それ以上、たとえば三時間はしんどい。

その時間が、映画に付き合う時間なのではないだろうか。
つまり、主人公の内面を共有し、
彼らと内面が繋がったような感覚を得る時間。

(風魔でも、四話ぐらいかかったよね)



小説版「てんぐ探偵」第30話を書き終えた。
まだ第一稿アップで、これからリライトするため、
皆さんへのご披露はもう少し先になる。
第30話は特別で、かなり大規模な事件が起きる。
夏休みスペシャル枠とか、劇場版みたいなイメージだ。
いつもよりとても長い。

どれぐらいの文字数かはあまり考えずに、衝動のままに書いた。
ラスト、その世界との別れがちょっと辛かった。
でもまた今度ね、とも言える感覚でもあった。
丁度、その世界と仲良くなったような感じだ。
プロットを書いてたときも、執筆中も長さなんて気にしてない。
どうせ尺制限のない自主製作だし。
長いなあとは思ってたけど、楽しさの方が優先的だった。
つまり、長さは僕の無意識が決めた。

書き終えたあとに概算して、
その文字数が映画110分の分量に相当することに、
僕は驚いた。
(まあ、普段の仕事で鍛えられた、時間感覚というのもあるのだろうが。
というわけで第六集は大幅大増ページでお送りいたします!)


人によるけれど、
仲良くなるのにどれくらい話すといいだろう。
自分と相手の内面を、少しでも通じあわせるのに、
どれくらいかかるだろう。
なんとなく二時間というのは、その平均というか、目安のようだと思う。

つまり逆に言えば、
外面だけの映画なんて、ちゃちな子供のものなのだ。

内面に深く入り、
主人公や他の人物と内面を通いあわせたような感覚になるのが、
素晴らしい映画なのだ。
そこで内面的成長をしてカタルシスがあるから、
人は映画を見るのではないだろうか。

「初対面の人と二時間飲んで、
仲良くなったような感じになる、成功した飲み」
のようなものが、
理想の観客と作品の関係ではないだろうか。

詰まらない映画とは、
折角飲みに誘ったのに、ちっとも仲良くならなかったよ、
という失望の感じに近いのではないだろうか。


あくまで僕の感覚だ。
そんなこと言ってる人は、殆ど聞いたことないけど。
posted by おおおかとしひこ at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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