今の俺は、本当の俺じゃない。
誤解されて、小さな型に嵌められた、間違った俺だ。
そこにチャンスが現れる。
全員から無理だと言われるか、誰もが反対することを予測される。
しかしそれは本当の俺を示す、唯一のチャンスだ。
だから苦しくても、何があっても、
出来なくても、やりとげる。
命と引き換えにしてでも。
それは本当の俺を、まだ誰にも見せてないからだ。
そのような主人公がハッピーエンドを迎えるとき、
主人公は、生まれ変わりに成功したと言えるだろう。
これがカタルシス、生まれ変わりの感覚だ。
例えばロッキーがそうだろう。
先日、未見だった「Mr. インクレディブル」をようやく見れた。
傑作だ。
しかし宣伝が悪く、
この物語の本質は今まで僕に伝わって来ていなかった。
この物語は、上に上げたカタルシスの雛形にきちんと入っている。
父親は窮屈な嘘つき保険業。
母親は引っ越しに怯える。
息子は思い切り走ることができず、
娘は自信がなく好きな男の前で隠れるばかり。
彼らが本当の自分を取り戻す、生まれ変わるための、
問題と解決(それは試練と言い換えてもいい)が、
この映画の本質である。
これは、ヒーローである「本当の自分」を取り戻す話だ。
だから、タイトルはラストに出る。
「Mr. Incredibles」と複数形だったのに拍手した。
家族の物語をモチーフにしながら、
これは個人個人の、全員の生まれ変わりの物語なのだ。
これを上手く邦題に出来なかった宣伝部は、
相変わらず死んでいい。
俺ならどうするか。「インクレディブルな一家」とでもする。
ヒーローものに見えないなら「インクレディブル・ファミリー」。
テーマを暗示するコピーをつけてみよう。
「パパ、ママ、また引っ越しをするの?」かな。
(これに力強く「Anymore」と答えるまでの話とも言えるだろう)
敵のアンチテーゼも素晴らしい。
「力を持たない者が、下駄を履くことのずるさ」を描くのだ。
「本当の力を見せること」という、
この物語のメインテーゼを見せる動機になる、
見事なアンチテーゼ、否定したい悪である。
これは、ヒーローもの、ボクシングもの以外にも使える型であることは、
少し考えれば分かるだろう。
スポーツものならなんにでも出来る。
受験勉強や仕事など、闘うものにならなんにでも応用可能だ。
(とは言え、分かりやすい闘いがクライマックスに来なきゃいけないから、
ヒーローものやスポーツものはそのベストの組み合わせだろうけど)
個人の内面に入りさえすれば、
日常を舞台とした何かの事件と解決にも応用できるかも知れない。
親や先生や大人に反抗するティーンエイジャーや、
バイト先の物語などにも使えるだろう。
現実的でない、異世界ものでも使える。
(そもそも異世界ものは、本当の俺が、
異世界で顕現するという雛型だ)
あとはそれぞれのワールドでの、
リアリティーや物語が、優れているものがおもしろくなると思う。
僕はラノベの異世界ものが苦手だ。
現実で本当の自分になれない人の、
架空の自分の願望世界なら本当の俺になれる、
という気持ち悪さを感じるからだ。
自分のそれは良くても他人のそれは気持ち悪い、
という感覚を、どこか逸脱している気がするからだ。
食わず嫌いかも知れないし、宣伝部が馬鹿で、上手く伝えられてないのかも知れないが。
カタルシスは、
良くできた内面の物語に必ずある。
内面のことを、いかに三人称形で描くかがポイントになる。
相当に練り込まれた「Mr. インクレディブル(邦題わるし)」の脚本は、
研究すれば、そのことについてあなたに多くの示唆を与えると思う。
2015年03月02日
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