2015年03月02日

カタルシス

今の俺は、本当の俺じゃない。
誤解されて、小さな型に嵌められた、間違った俺だ。
そこにチャンスが現れる。
全員から無理だと言われるか、誰もが反対することを予測される。
しかしそれは本当の俺を示す、唯一のチャンスだ。
だから苦しくても、何があっても、
出来なくても、やりとげる。
命と引き換えにしてでも。
それは本当の俺を、まだ誰にも見せてないからだ。

そのような主人公がハッピーエンドを迎えるとき、
主人公は、生まれ変わりに成功したと言えるだろう。

これがカタルシス、生まれ変わりの感覚だ。


例えばロッキーがそうだろう。

先日、未見だった「Mr. インクレディブル」をようやく見れた。
傑作だ。
しかし宣伝が悪く、
この物語の本質は今まで僕に伝わって来ていなかった。


この物語は、上に上げたカタルシスの雛形にきちんと入っている。

父親は窮屈な嘘つき保険業。
母親は引っ越しに怯える。
息子は思い切り走ることができず、
娘は自信がなく好きな男の前で隠れるばかり。

彼らが本当の自分を取り戻す、生まれ変わるための、
問題と解決(それは試練と言い換えてもいい)が、
この映画の本質である。

これは、ヒーローである「本当の自分」を取り戻す話だ。

だから、タイトルはラストに出る。
「Mr. Incredibles」と複数形だったのに拍手した。
家族の物語をモチーフにしながら、
これは個人個人の、全員の生まれ変わりの物語なのだ。

これを上手く邦題に出来なかった宣伝部は、
相変わらず死んでいい。

俺ならどうするか。「インクレディブルな一家」とでもする。
ヒーローものに見えないなら「インクレディブル・ファミリー」。

テーマを暗示するコピーをつけてみよう。
「パパ、ママ、また引っ越しをするの?」かな。
(これに力強く「Anymore」と答えるまでの話とも言えるだろう)


敵のアンチテーゼも素晴らしい。
「力を持たない者が、下駄を履くことのずるさ」を描くのだ。
「本当の力を見せること」という、
この物語のメインテーゼを見せる動機になる、
見事なアンチテーゼ、否定したい悪である。



これは、ヒーローもの、ボクシングもの以外にも使える型であることは、
少し考えれば分かるだろう。
スポーツものならなんにでも出来る。
受験勉強や仕事など、闘うものにならなんにでも応用可能だ。
(とは言え、分かりやすい闘いがクライマックスに来なきゃいけないから、
ヒーローものやスポーツものはそのベストの組み合わせだろうけど)

個人の内面に入りさえすれば、
日常を舞台とした何かの事件と解決にも応用できるかも知れない。
親や先生や大人に反抗するティーンエイジャーや、
バイト先の物語などにも使えるだろう。
現実的でない、異世界ものでも使える。
(そもそも異世界ものは、本当の俺が、
異世界で顕現するという雛型だ)
あとはそれぞれのワールドでの、
リアリティーや物語が、優れているものがおもしろくなると思う。

僕はラノベの異世界ものが苦手だ。
現実で本当の自分になれない人の、
架空の自分の願望世界なら本当の俺になれる、
という気持ち悪さを感じるからだ。
自分のそれは良くても他人のそれは気持ち悪い、
という感覚を、どこか逸脱している気がするからだ。
食わず嫌いかも知れないし、宣伝部が馬鹿で、上手く伝えられてないのかも知れないが。



カタルシスは、
良くできた内面の物語に必ずある。
内面のことを、いかに三人称形で描くかがポイントになる。
相当に練り込まれた「Mr. インクレディブル(邦題わるし)」の脚本は、
研究すれば、そのことについてあなたに多くの示唆を与えると思う。
posted by おおおかとしひこ at 14:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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