2015年03月03日

ドリーム2

物語の中の世界は、
ある意味では現実よりも現実っぽい。
それは、理想の現実を描くからだ。


311の天災と人災は、
それ以前に我々がぼんやりと想像していた、
理想のあるべき現実よりも、
本当の現実のほうが遥かに悲惨であることを皆に示した。

そうでなくとも僕らの日常には、
相互理解が上手くいかなかったり、
好きなのに思いが届かなかったり、
努力が報われなかったり、
するべきことをせずに死んだり、
悪いことをするやつがばれてなかったり、
人の上に立つべき人が愚かだったり、
無念や無慈悲や無常が溢れている。

だから物語の中では、
そんなリアリティーを描きながら、
少しだけ、
勧善懲悪は実在することを示したり、
努力は報われることを示したり、
賢さが愚かさを糾弾したり、
人生に目的ができたり、
苦しい愛は幸せを掴んだり、
楽しい生活があることを描いたり、
因果応報を示したり、
真実が知られることになる、
などのようにするのである。

これは一種のドリームである。
理想と言ってもいい。


それが嘘臭いのはプロパガンダだ。
宗教説話(日本には仏教説話の名残がある)、
新興宗教、マニフェスト、道徳話、
イケメンたちが群がる女とセックスもせずにわらわら楽しそうにしている、
アイドルグループが恋愛してません、
プロレスは真剣勝負です、
などを胡散臭く感じるのは、
そのことが理想的でありすぎるように書かれることだ。

そんなうまいこといくわけないやろ、
という我々のリアリティーの感覚が、
プロパガンダを嘘だと感じるのである。
(だから、頭のよい、現実をよく知らない純粋な人は、
宗教に引っ掛かりやすい。
オウム真理教が、京大生東大生の、特に理系を狙ったことは有名である。
僕の同期の知人も出家したが、俗な人ではなく純粋な人だった)


このセンサーに引っ掛からないように、
あなたは巧みにリアリティーを操作しなければならない。
ドリームを描きたいのがその動機だろうから、
それが、リアルでも成立するような、
言い訳を考えるのである。
これは、リアルとドリームを繋ぐ嘘だ。

初めて二人で飲んだ帰りに、
女の子が「セックスしたいからうちに来て」というのはリアルではない。
たとえば、女の子が「うち引っ越したばかりなんだ」と言い、
「ちょっと部屋見せてよ」と男に言わせるのは、
リアリティーのある嘘である。
男から「うち猫飼ってるんだ」「見たーい!」は、
少し前に流行ったやり方だ。
80年代は、送ってきた男に「酔いざましにコーヒー入れるわね」が定番だった。

本当の現実では、そんなにうまいこといかない。
「あ、じゃ、帰ります」「あ、じゃ、また」「またね」
ぐらいだろう。
この場合、男女の関係がうまくいくことがドリームである。

物語は、ドリームと現実の間に、上手な嘘の架け橋をかけるのだ。

うち引っ越したばかりなんだ、ちょっと部屋見せてよ、
のやり取りは、現実にやるとしたら、
芝居がかるはずだ。
芝居をしてることは分かりながら、
二人はその芝居を芝居のせいにして、
本音であることの、部屋になだれこむことだろう。

(またまた80年代に戻れば、
「モシモシ○○クン応答願いまーす!」とか、
「キミを逮捕スル!」などの小芝居がその芝居になり得た時代があった)


何故ヒロインが主人公を好きになるのか、
(または何故イケメンがブスでドジな私を本命にするのか)
には、リアリティーのある嘘が必要である。
恋愛ものは、そこが核心である。

恋愛ものに限らず、
因果応報や、正義の実現や、信賞必罰などの、
ドリームを実現させるために、
あなたは嘘をつく。

そんな馬鹿なと一笑に付されない、
リアリティーのある嘘をだ。


僕はいまだに「ジュラシック・パーク」の大嘘が大好きだ。
「琥珀とは、樹液が固まって何万年も経って宝石化したものだ。
もともと樹液だから、それを吸いにきた虫ごと巻き込み、
虫入りの宝石となった琥珀は、結構ある。
とある研究者は、その中に蚊がいることを見つけた。
彼らは恐竜の血を吸っていたのではないか?
琥珀の中の蚊の中には、恐竜の血液サンプルが閉じ込められているのではないか?
そこから恐竜のDNAを採取出来るのではないか?」

素晴らしい、わくわくする、リアリティーのある嘘だ。
我々の微妙な記憶「虫入りの琥珀」から、
よくぞ思いついたといえよう。
実際には、恐竜の血液サンプルは取れないだろうし、
DNAが完全に取れることもないだろうし、
(取れたら恐竜は爬虫類か鳥かの決着はすぐにつく)
第一映画の中では、失われたDNAの一部は、
蛙のDNAを使うことになってるし、
DNAから生命を合成する能力も今の我々にはない科学である。

しかしそんなことすっ飛ばして、
それはリアリティーのある嘘として成立している。

恐竜の現代の復活、というドリームが強烈過ぎて、
リアリティーがちょっと譲歩してるのかも知れないね。



部屋に連れ込む話に戻る。
猫を見たいから部屋に上がった、
引っ越したばかりの部屋を見たいから部屋に上がった、
DVDを一緒に見たいから部屋に上がった、
それらは「言い訳」だ。
半分本気ではないが、本気のふりをしている。
そういうことにしておいて、本気(セックス)を実現させたいのだ。

ドリームを人は信じたい。
理想の実現を人は信じたい。
それが強力であれば、
リアリティーとの架け橋である嘘は、
ちょっと嘘臭くても、人は乗っかってくれることもある。


それは、ドリームの強烈さと、架け橋の強度と、リアリティーの関係できまる。
(昔通用した嘘も、今は嘘とばれているから通用しないリアリティーもある。
例えばプロレスは本当に真剣勝負だと思われていた時代は、
80年代まであった)


以前、客観的になるにはどうすればいいですか、
と質問してきた人がいたけど、
この関係を理解すれば、
リアリティーとドリームの関係が、
客観的にどう見えているかが見えれば、
架け橋の強度が脆すぎるかどうかが見えるはずである。

ドリームが俺ツエー、
架け橋が、あなたは世界を救う勇者に選ばれたから、
だったら、殆どの人は「なんでやねん」と橋を叩き壊すだろう。

(マトリックスは、基本的にはこれをやるのだが、
何故成功したのか。架け橋を、徹底的に作り込んだのだ)


作者がドリームに心酔しきっていたら、
それに気づくことは出来ない。
作者はドリームに心酔しきりながら、最も遠くからその現象を眺めなければならない。
それはセックスの最中に世界情勢の歴史的文脈を考えるぐらい、
冷めることだ。冷めるけど、それが客観的になることだ。
そして冷めながら、やはりピストンには一番夢中にならなければならない。
この意味で、作者とは分裂症でなければならない。

世界に心酔する受け手よりも熱狂しながら、
世界を一番遠くから見ていなければならない。

あなたは、そのような架け橋をつくるのである。



現実がどのようなものかを、身を持って知ること。
ドリームが魅力的で強烈なこと、あるいは、まだ誰も夢見ていない、
新しいドリームを発明すること。
そして、リアリティーとドリームを嘘臭くなく繋ぐ架け橋を創作すること。

これらが出来て、はじめて作劇は出来たことになる。
posted by おおおかとしひこ at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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