2015年03月06日

テーマとはなにか12:テーマは三人称だ

演説、論文、宣言などは、
一人称である。

一方、映画は三人称だ。

前者のテーマは一人称形をしている。
後者のテーマは三人称形をしている。




テーマが一人称なものでは、
テーマは主張になる。

前の記事で例に挙げたラブソングもそうだ。
「わたしはあなたがすきです」が、
テーマであり主張である。

あらゆる演説、論文、プロパガンダは、
主体は筆者である。
私が、○○であると主張する、
の形をしている。

また、説明文や科学は、主語がない。
誰が思おうが主張しようが関係なく、
事実は事実のままあり、
事実関係は事実関係のままある。
それを客観性ということがある。

説明文の振りをしながら、主張することは可能だ。
「地球は環境汚染されている」
という説明文は、裏に環境を考えようという主張が含まれる。
主張の全く入らない説明文があるかどうかに関しては、
このブログの範疇外なので深く考えないことにする。
また、「既に説明しましたよね」という主張を通すための、
説明文なども世の中には沢山存在する。


三人称形である映画においては、
テーマは三人称形であるべきだ。
主語は作者ではない。
私は○○と主張する、でもない。
私は○○だと思う、という控えめな主張になることはある。
あるいは説明文のように、主張を暗にしていることにもなる。

ここが、テーマが主張だと誤解される部分だ。

主張するテーマは、一人称形である。
三人称形のテーマは作者の主張ではなく、
ただの命題群である。

それを、真実である(かも知れない)と、全編終わったあとに、
証明することが、物語である。

証明したことが、
結果的に作者の主張と見られることは、
理解しておいたほうがよい。

それでもあなたは、
主張しようとして物語を書くべきではない。

それは、一人称形のテーマを書くことになってしまうからだ。



あなたは、三人称形を書く。
映画の脚本は、三人称形でテーマが書かれるべきだ。
私が、や、あなたに、があってはならないのだ。
誰か他の人が、誰か他の人に、が、
三人称形であることだ。



(一人称小説はどうだろう。エッセイと変わらなく、
作者の主張になってしまうかも知れない。
余程慎重に、作者と作中の私を区別しない限り、
一人称テーマになってしまう気がする。
詳しくないので断言はしない)
posted by おおおかとしひこ at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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