2015年03月07日

視点の変更と感情移入3

映画は三人称視点だ。
カメラは人の外から人の外側を写し、人の中に入ることはない。
(主観ショットやボイスオーバーなどの微妙な例外はあるが、
その例外を使っていないものも多い)

にも関わらず、
我々観客の視点と気持ちは、その人の中に入っている。
これが感情移入である。

感情移入は、
頭で理解する状況説明のイントロと、
心で感じる深い部分のインゾーンの、
コンビで行われる。

途中をはしょって、先にアウトゾーンを見ておこう。


感情移入はいつ終わるのだろうか。
いつ主人公(たち)の外側に視点が戻り、
我々は物語の中から、
部長や親がうるさくて、たいして面白くもない日常生活へ戻るのだろうか。
ラストシーンか。エンドロールか。
主題歌を聞いているときか。明かりがついたときか。
ちがう。

カタルシスを迎えたときだ。

感情移入は、カタルシスをアウトゾーンにするのだ。


カタルシスについてはこれまでも書いてきた。
主人公が内的問題を克服し、
新しい自分に生まれ変わる瞬間だ。

これは内的な瞬間であるため、
三人称形では、外からカメラでとれるもの、
すなわち、行動、台詞、表情(この順に強い)
であらわすべきである。
今までの物語は、すべてこの瞬間を描くためにある。

また、物語は、外的な事件と解決がある。
(例えば宇宙人の侵略とその撃退)
その解決の瞬間が、主人公のカタルシスになる瞬間が、
映画の理想である。

大抵、これはクライマックスのシーンのことである。
主人公は、クライマックスで生まれ変わる。
この瞬間、我々の感情移入は終わりだ。
インゾーンで我々が感じた深い感情が、
昇華を迎えるからだ。
(その意味では、やはりインゾーンはネガティブな感情であるべきかも知れない)

ラストシーンとは何だろう。
僕は、余韻だと思っている。
クライマックスやカタルシスに達しても、
人間の体や心は、すぐに平常に戻らない。
ゆっくりと日常生活へ戻してあげる、
猶予時間のようなものだ。

ここはアウトロである。
主人公とあなたはアウトゾーンを経て、
別々の人物に戻った。

だけど、すぐ分かれるのはさみしいので、
何となく一緒にいたいと思う気持ちが、アウトロにある。
後日談が語られるのが多いのも、
ちょっと時間をおいた、その後の彼らを見てみたいからだろう。

最後に示される、主人公の変化が、
主人公の旅の意味だった。
その意味を観客は見届けて、日常生活へ帰るのだ。
さようならもう一人の自分。
君は見事冒険を成功させた。
現実の人生での、俺はどうかな、と。


この時に流れる主題歌は、
物語のテーマを歌うべきだ。
テーマという言葉を、音にのせるべきだ。
出来なければ、音楽だけでもいい。
最良の台詞は無言でもある。音楽だけでテーマを語れるなら、
それは構わないだろう。
(タイアップのアイドルが次に売り出したい歌なんて、論外だ)



さて、今までの議論を踏まえて、
もう一度帰ってきたウルトラマンの主題歌を見直すとよい。
イントロとインゾーンについては議論した。

アウトゾーンは「帰ってきたぞ 帰ってきたぞ」のリフレインだ。

ここがこの歌のクライマックス(サビ)であり、
カタルシスが起こっている。
インゾーンの孤独は、
(ウルトラマンの登場という)地球人の歓迎で満たされる。
それがメインテーマ「ウルトラマン復活」をも、
意味している。何重にも意味が重なっているのだ。


この時に我々の感情移入は、
ウルトラマンから離れて、我々地球人の視点に戻る。
そしてラストシーンがわりに、
少しだけの余韻がある。
感情移入の余韻だから、
ウルトラマンの目線でも見れるし、
地球人の目線でも見れる。
それが最後に「ウルトラマン」と叫ぶところだ。

そのたった一言のヒーローネームを叫ぶとき、
我々はどちらの目線にも立っている、
感情移入の理想形にいるのである。



たった六行。
そのなかに、感情移入に必要な、全ての段取りが配されている。
さあ、あなたも歌おう。

カラオケでも鼻歌でもいい。
歌うことで体を通して、理解が進むこともある。

(二番以降はこの際無視しよう)
posted by おおおかとしひこ at 14:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
質問です!

すごく納得したんですが、
名作はカタルシスを迎えた瞬間に終わる、
アウトロが少ないという考えはどう思われますか?

例えば「タイタニック」(名作かどうかは別として、
多くの人を中毒にしたことをふまえ)では、
いったん話が落ち着いてから、
感情のカタルシスはまさにグランドフィナーレの
あのシーンだと思います。

ローズの感情が昇華した瞬間に終わることで、
多くの観客を現実に戻さず、
中毒にしてしまったように思います。

また、「ロッキー」でも、
エイドリアン!愛してる!おれもだ。で、
ガツンと終わります。

邦画だと「ウォーターボーイズ」は、
発表会が終わった瞬間に終わり、
その後のアウトロ(後日談的な)がないことで
気持ちよい読後感になってると思うのですが、

アウトロをほぼなくして、現実に引き戻さない、というのは
いちテクニックとしてどう思うか聞きたいです!
Posted by ほら at 2015年03月07日 15:58
ほら様コメントありがとうございます。

暗転の間、エンドロールが、アウトロになってるのではないかと。
ロッキーはフリーズとあの音楽がアウトロに。

タイタニックは、ラストが果たしてカタルシスか?
逆に、タイタニックのテーマは何?
あの映画はアトラクションムービーの範疇では?

ウォーターボーイズは、ロッキーと同じ構造。
(ていうかタッチかな?)


アウトロを省略することは中毒性を生むかも知れませんが、所詮付け焼刃。
リピートが回っても、後世には残らないでしょう。

リピートさせることが映画の目的なのか、
より多くの人に真の満足を与えるのか、
映画の目的で自覚的に使い分けるのはありですが。


ちなみに、一見アウトロが数秒程度なのに、
それが素晴らしい「アパートの鍵、貸します」を
おすすめしておきましょう。
(実はラストのあの台詞までに決着はついているのです。
ヒロインが走った時点で。そっからは全部アウトロ)
Posted by 大岡俊彦 at 2015年03月07日 22:09
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