2015年03月08日

何かのために、何かをする

その人は、
何かのために、何かをする。

それがストーリーである、と言ってよい。


訳が分からなくなったら、
このシンプルな形に纏めてみよう。

まず、何をするのか?
色々するんだろうけど、まずは一言でいい。
風魔の小次郎なら、「夜叉と戦う」に集約される。
これを、たった一言にすることで、
全体が見えてくるのである。

それが「戦う」だとしたら、
「分析する」「一端は戦いを避けようとする」
「準備する」「先手を打つ」「逆襲されたので逆襲する」
「物理バトルでなく知略を使う」
「最後は物理バトルになる」
などに、細かく分かれるかも知れない。
風魔では、
「止められているのだが勝手に単独で戦う」
「敵の潜入に勘づく」「勝手に墓を作る」
「変装して劉鵬を監視する」「木刀で灯籠を割る訓練をする」
などがあった。

あなたのストーリーも、そのように部分に分かれることだろう。
訳が分からなくなったら、それらを一端整理してみよう。

全て、何をする、という動詞で書けるものをピックアップしよう。

心配する、期待する、見る、話すなどは、
動詞かも知れないが、映画においては弱い動詞である。
何故なら、立ち姿(座り姿)をフィックスでとらえるしかないからだ。

走る、ボールを蹴る、肩をつかむ、張り倒す、
説得する、決裂する、脱退する、盗む、
殺す、結婚する、恋人になる、怪我をする、
戦う、歌い踊る、
などの、強い動詞が理想である。

「真実を知る」は弱い動詞だが、
知ったから「脱走する」は強い動詞だ。
この場合の弱い強いの基準は、
その人の内面の揺れではなく、
その人の外面の動きの大きさである。
何故なら、三人称視点では、内面は写らないからだ。

たとえ俺は実の子ではなかった、
という本人にとって大きな衝撃だったとしても、
それは、「何かのために、何かをする」の中には関係がない。
「ショックを受けて、自殺を試みる」のほうが、
真実を知ることより、強い動詞だ。

逆に言うと、映画とは強い動詞で、
その人の内面の強い何かを現す表現ジャンルなのである。



さて、その動詞には、「何のため」が必ずついてまわる。

弱い動詞にはない。受動的だからだ。
心配するのは感情の働きだが、
何のために、はない。(その人のために心配する、のも変だ)

心配したので、飛行機をキャンセルする、
などの強い(立ち姿フィックス以外の動作)動詞には、
心配のため、というものが存在する。


さあ、これをリスト化してみよう。

それがあなたの人物の、
流れである。


そして、主人公だけでなく、
他の人物のそれも作ってみよう。
主人公に比べてスカスカだとしたら、
あなたのストーリーは、練りが足りない。

誰かと誰かのぶつかり合いを無意識に避けている。
もっとぶつかり合うようにすると、
面白くなる。
それは、それぞれの立場や目的を明確にすることで整理できる。
(時に、喧嘩するような要素をわざと入れておく。
納豆派と納豆否定派みたいな小ネタから、
イスラム主義対キリスト主義な大ネタまで)

それらのぶつかり合いは、何回ある?

ハリウッドの理想は、毎シーンだと言うぜ?
(僕は大袈裟だと思うけどね)


何かのために、は、
自分のため?他人のため?とある集団のため?
これも、一言で集約してみよう。
完全に利己的な人は、大抵敵で、
完全に他人のための人は、大抵死ぬ。
ストーリーってのはそういう風に出来ている気がする。
そうじゃないパターンも、勿論可だ。

これらも、大きくは○○の為だが、
個別の動詞においては、場面場面で変わって来るだろう。
△△を届ける為に電車に乗ったが、敵に見つかったため、
殺されないために電車の窓から飛び降りる、
プレゼントに彼女の好きなものを買おうとしたが、
彼女に鉢合わせしそうになって、慌てて隠れる、
などだ。
それぞれの動詞につけて、一覧出来るとよい。


それらを、横に人物、縦に時間軸で、
一覧表を作ってみることをおすすめする。

これは、ハリウッドでステップアウトラインと言われるものに近い。
これは自己流で開発したものだ。




これらを眺めることは、ストーリー全体を俯瞰することである。
展開を頭のなかで思い描く構想時、
リライトするときに役に立つ。

何のために、を変えたり、
何をする、を変えたり、
誰かと誰かのする順番を入れ替えたり、することができる。

おすすめは、
大きめの紙(B4やA3。おさまるならA4でよい)を使って、
手書きでやることだ。
まずA4あたりで下書きしてみて、レイアウトの当たりをつけてから、
鉛筆で一覧を書こう。
鉛筆で書くのは、消しゴムで消せるためだ。

デジタルに頼ってはだめだ。
原始的なアナログでやるのは、
ストーリーを直接「さわる」ためである。
手でストーリーをさわる経験を沢山積むと、
そろばんと同じように、頭のなかにこの手書きの紙が浮かぶようになる。
頭の中の算盤をはじくように、頭のなかでリライト出来るようになる。
(どれくらいでマスター出来るかは、
多分算盤と同じぐらいかかる。地味だけど、やるべし)

何度も消したり、書いたりしてるうちに、
どこを消すべきか、何を書くべきかについて、
勘のようなものが鍛えられる。
何故かデジタルよりアナログのほうが、習得が早くしかも忘れない。
(身体的に覚えさせることは、自転車の能力のように、
自動化するようになる。頭の中の可塑性よりも身体はないため、
結果的に忘れない「感覚」になる。
ストーリーづくりは、純粋に頭の中の行為ではなく、
身体的能力の利用もするものだ)


全ての人物は、
何かのために、何かをする。

それがストーリーだ。


弱い動詞と強い動詞について、次回はさらに突っ込んでみる。

posted by おおおかとしひこ at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック