これまでの議論から、ほぼ自明だ。
映画の面白さを、二幕だと思っているからだ。
しかもそれが全てだと思っているからだ。
例えば。
「へルタースケルター」を、
「整形を繰り返すカリスマアイドル」と捉えて、
それを沢尻エリカがやれば面白いんじゃね?と思うこと。
「宇宙兄弟」を、
「宇宙飛行士を目指す兄弟」と捉えて、
兄弟の友情や夢に焦点を与えること。
「るろうに剣心」を、
「剣の達人たちの異次元チャンバラ」と捉えること。
これらは、
映画の面白さの間違った捉え方だ。
正確に言うと、本質ではない、
客引きの面白さの捉え方である。
プロデューサーが興行を気にするのは、良くわかる。
だから興行についての、保証(成功しそうと信じられること)が欲しいだろう。
それらを保証するのは、
二幕の、スペシャルワールドの面白さだ。
三幕がどんなに素晴らしくても、事前にネタバレすることは出来ないからである。
正確に言えば、一幕と三幕は、
どんな物語でも面白くあることが前提だ。
それらが横並びにあるなら、
二幕の面白そうなものが、皆手を出しやすい、
分かりやすい、
ということなのである。
一幕と三幕は、脚本家が命を懸けて素晴らしくするから、
プロデューサー的には、「使える」二幕があれば上々なのである。
ひょっとすると、
プロデューサーは、一幕と三幕なんか見ちゃいないかも知れない。
テーマとか感情移入とか、難しいことは感知しないかも知れない。
或いは、そこは脚本家や監督の芸術領域だから、
そこはテリトリーを侵さないようにしているのかも知れない。
どのケースにせよ、プロデューサーは、
二幕の面白さを映画の面白さだと考えている節がある。
(そしてそれ以外はないものとしている)
最初に出した例に戻ろう。
「へルタースケルター」のテーマは自意識になる筈だ。
仮面を被る古典を整形アイドルで描き、
変身ものの現代版となり得た筈である。
それが単なるスキャンダル(スポーツ新聞での紹介がマックス)に堕している。
「宇宙兄弟」のテーマは優秀な弟へのコンプレックスだ。
兄ムッタは不細工でなければならない。
何もかも自分より優秀な弟を越えるために、
最も不可能なミッションを自分に課す話の筈だ。
(モテナイ男がアイドル以外とは結婚なんてしねえ、
となぜか一番ハードルを上げる心理)
「るろうに剣心」のテーマは殺さずの誓いが、
実戦では意味があるかどうか、が焦点やテーマになる筈だ。
(これについては既に議論した)
いずれも、テーマを語るための流れになっていないし、
テーマを語るためのスペシャルワールド(一幕と三幕のペアの逆の世界)
になっていない。
単に二幕の面白さが、点として存在するだけだ。
つまり、これらの面白さは、
アトラクションやライドの面白さなのだ。
人間の深いところに届き、人間ドラマを経て、
変化を示すような、「物語」の面白さではないのである。
前者は時間軸を持たない面白さ、
後者は時間軸そのものの面白さだ。
これらの映画の内容的惨敗は、
物語の面白さが入っていないことにあるのだ。
プロデューサー主導の映画は、
アトラクション映画、ライド映画になる。
脚本家、小説家主導の映画は、
ストーリー重視、テーマ重視になる。
どちらも違うところから同じものを見てるから、
永遠に話が通じないのだと思う。
で、権力的にはプロデューサーのほうが上だから、
訳のわからない事を言ってる脚本家を首にし、
プロデューサーの言う面白さを、
その通りに書くイエスマン脚本家が台頭し、
アトラクションしかも中身のない、
惨敗映画が量産される。
一幕と三幕の、内面の変化に注目してみるとよい。
その変化がテーマだ。
それが二幕のアトラクションに関係がないのなら、
その映画はちっとも面白くないのだ。
「ガーディアンズオブギャラクシー」で、それを体験することが出来る。
ストーリーとは、人間の内面の、必然の繋がりの面白さである。
新しいものを見るアトラクションやライドや旅行の面白さでは、ない。
(両方あるのが理想)
2015年03月11日
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