2015年03月11日

プロデューサー主導の映画は何故惨敗するのか?

これまでの議論から、ほぼ自明だ。
映画の面白さを、二幕だと思っているからだ。
しかもそれが全てだと思っているからだ。


例えば。

「へルタースケルター」を、
「整形を繰り返すカリスマアイドル」と捉えて、
それを沢尻エリカがやれば面白いんじゃね?と思うこと。

「宇宙兄弟」を、
「宇宙飛行士を目指す兄弟」と捉えて、
兄弟の友情や夢に焦点を与えること。

「るろうに剣心」を、
「剣の達人たちの異次元チャンバラ」と捉えること。

これらは、
映画の面白さの間違った捉え方だ。




正確に言うと、本質ではない、
客引きの面白さの捉え方である。

プロデューサーが興行を気にするのは、良くわかる。
だから興行についての、保証(成功しそうと信じられること)が欲しいだろう。
それらを保証するのは、
二幕の、スペシャルワールドの面白さだ。
三幕がどんなに素晴らしくても、事前にネタバレすることは出来ないからである。



正確に言えば、一幕と三幕は、
どんな物語でも面白くあることが前提だ。
それらが横並びにあるなら、
二幕の面白そうなものが、皆手を出しやすい、
分かりやすい、
ということなのである。

一幕と三幕は、脚本家が命を懸けて素晴らしくするから、
プロデューサー的には、「使える」二幕があれば上々なのである。
ひょっとすると、
プロデューサーは、一幕と三幕なんか見ちゃいないかも知れない。
テーマとか感情移入とか、難しいことは感知しないかも知れない。
或いは、そこは脚本家や監督の芸術領域だから、
そこはテリトリーを侵さないようにしているのかも知れない。

どのケースにせよ、プロデューサーは、
二幕の面白さを映画の面白さだと考えている節がある。
(そしてそれ以外はないものとしている)


最初に出した例に戻ろう。
「へルタースケルター」のテーマは自意識になる筈だ。
仮面を被る古典を整形アイドルで描き、
変身ものの現代版となり得た筈である。
それが単なるスキャンダル(スポーツ新聞での紹介がマックス)に堕している。

「宇宙兄弟」のテーマは優秀な弟へのコンプレックスだ。
兄ムッタは不細工でなければならない。
何もかも自分より優秀な弟を越えるために、
最も不可能なミッションを自分に課す話の筈だ。
(モテナイ男がアイドル以外とは結婚なんてしねえ、
となぜか一番ハードルを上げる心理)

「るろうに剣心」のテーマは殺さずの誓いが、
実戦では意味があるかどうか、が焦点やテーマになる筈だ。
(これについては既に議論した)

いずれも、テーマを語るための流れになっていないし、
テーマを語るためのスペシャルワールド(一幕と三幕のペアの逆の世界)
になっていない。

単に二幕の面白さが、点として存在するだけだ。


つまり、これらの面白さは、
アトラクションやライドの面白さなのだ。
人間の深いところに届き、人間ドラマを経て、
変化を示すような、「物語」の面白さではないのである。

前者は時間軸を持たない面白さ、
後者は時間軸そのものの面白さだ。


これらの映画の内容的惨敗は、
物語の面白さが入っていないことにあるのだ。

プロデューサー主導の映画は、
アトラクション映画、ライド映画になる。

脚本家、小説家主導の映画は、
ストーリー重視、テーマ重視になる。

どちらも違うところから同じものを見てるから、
永遠に話が通じないのだと思う。


で、権力的にはプロデューサーのほうが上だから、
訳のわからない事を言ってる脚本家を首にし、
プロデューサーの言う面白さを、
その通りに書くイエスマン脚本家が台頭し、
アトラクションしかも中身のない、
惨敗映画が量産される。

一幕と三幕の、内面の変化に注目してみるとよい。
その変化がテーマだ。
それが二幕のアトラクションに関係がないのなら、
その映画はちっとも面白くないのだ。
「ガーディアンズオブギャラクシー」で、それを体験することが出来る。


ストーリーとは、人間の内面の、必然の繋がりの面白さである。
新しいものを見るアトラクションやライドや旅行の面白さでは、ない。
(両方あるのが理想)
posted by おおおかとしひこ at 01:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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