2015年03月14日

設定と物語の違い

設定を書いていると、物語を書いた気になる。
バックストーリー(過去)や
周辺の世界の設定(現在)もするし、
どういう事件が起こるか、
どういう結末を迎えるか、
どういう展開や事件があるかなどの、
ざっくりしたプロットもついてくることがある。

面白い設定は、
事件の起こった理由や、どんでん返しまで推測できる、
面白そうな話を想像させる。(例:ファイブスターストーリーズ)

にも関わらず、設定を書いても、物語を書いたことにはならない。
設定を書いても、プロットを書いたことにはならない。

何が違うのか。
目的である。



ファイブスターストーリーズの膨大なWikiを、
旧設定に関しては殆ど読破した。
中学で触れて以来、魅了された数々の設定を思い出した。
モーターヘッドやファティマや年表のことを思い出した。
ある人物や事件の設定についても思い出した。
黒騎士は歴代五人いる、ということについても思い出した。

あれだけ詳細に設定がなされていても、
あの設定は物語にならないと、
今の俺なら分かる。

主人公アマテラス(またはレディオスソープ、またはログナーまたはコーラス三世)
に、目的がないのである。


そして、彼らの目的を阻む、別の人の目的がないのである。
さらにそれに絡んでくる、別の人の目的がないのである。

アマテラスは神だからおいといて、
人の姿であるレディオスについてもそうだ。
「MHを作りたい動機」があるっぽいが、
それを阻む別の人の目的がない。
作りたい動機に対して、
作らせない人や、作ることを競争するライバルも出てこない。
そして何より、作りたい動機を、
我々は自分のことのように、本当にそうだと思えない。

つまり、コンフリクトと感情移入がないのである。

MHという人外兵器を作る動機に感情移入出来ない?
いやいや、小説「てんぐ探偵」29話の、
町工場の社長野田の、聞いたことない部品を作ろうとする思いに、
感情移入出来なかった? 感情移入したよね?

その差はなんだ。

目的がハッキリしていること、
その目的を阻む何かがあること、
それに対して行動をすること、
その結果周りが動いたり、再び行動をしたりすること、
その結果…
という連鎖があるかないか、
主人公野田の本音に、我々がシンクロ出来るかどうかの差だ。

前者がコンフリクト(ぶつかり合いやもめ事)による展開、
後者が感情移入である。


目的がハッキリしていることは、
作劇の基本である。

それが、ファイブスターストーリーズには決定的に欠けているのだ。

レディオスソープはMHが作りたいのか?よくわからない。
ログナーは何がしたいのか?
アイシャコーダンテは昔から好きなキャラだが、
彼女の立場や性格や履歴は分かるが、
これから彼女はどんな目的で何をしたいのか?
それらが分からない。
仮に分かったとしても、詰まらない。

それは目的に感情移入出来ないからである。



プロットを考えるとき、
設定的なことを考えることは良いことだ。
事件を思いつくのも良いことだ。
しかし大抵は、事件や場面しか思いつかないまま、
次の事件や場面を思いつこうとしていないか?
それは、設定だけが増えていくことに過ぎない。

事件や場面を思いついたら、
誰のどういう目的や思惑の絡み合った結果なのかを考えなければならない。

関係各位の立場や目的について整理し、
誰がどういう順番でどう動いたかも、
整理しなければならない。
当然そうしただろうについても想像するべきだ。
(例えば警官なら、事件を聞いて動かない筈はない、など)
それぞれの目的はなんだろう。
目的のない人間は、物語の中にいない。
目的のある人物が、物語の登場人物である。
物語は現実ではない。
現実に似た別物だ。
現実に目的がハッキリせず生きている人はたくさんいるが、
物語の登場人物は、目的がハッキリしていることが、
舞台にいる条件である。

その目的は特別高尚でなくともよい。
小便をする場所を探している(バッファロー66)、
家賃を待ってもらう(サンセット大通り)、
などの矮小なものでも構わない。
そこから始まる物凄い事件、コンフリクト、感情移入に繋がれば。

目的がハッキリしないことが問題だ。
ラーメンを食べたい、
素晴らしい作品を作りたい、
モテたい、
コンビニに寄りたい、
など、なんでもいい。
ただしこのうち、
素晴らしい作品を作りたい、と、モテたい、は、
作劇上良くない目的だ。
結果の基準が良く分からないからだ。

結果を一発で示せる目的が、
物語でいうところの、ハッキリした目的である。



ファイブスターストーリーズに戻ると、
ミラージュ騎士団の目的がハッキリしていない。
アマテラスの警護は職務であるが、それは個人の目的ではない。
あと受動的目的で積極的目的ではないため、
行動が対処(リアクション)になってしまい、
仕掛け(アクション)になれない。
つまり警護は全て後手を引く。従って彼らから物語の発端になり得ない。
(警護目的で現場視察を先にし、何かを排除する、
という積極的目的を見つければ、物語の端緒になり得る)

その他、国王や政治家や騎士が、
100人単位で出てくるが、
それらの設定はあるものの、
作劇に必要な、先手を打つような目的を持つ人が、
多分一人もいない。

だから、いつまで経っても物語は始まらないのだ。




どんなに魅力的なキャラを作っても、
作劇ではない。

ふなっしーがどれだけ魅力的なキャラだとしても、
作劇ではない。
ふなっしーが何かハッキリした目的を持ち、
それを阻む目的の別の人が出てきたとき、
物語はようやく始まる(コンフリクト)。
そして映画とは、そのようなメイン人物が5ないし6人いることが、
必要である。


キャラクターの設定、
メカの設定という静的要素だけでは動的ではない。
事件や結末の設定を書いても、
そこに興味を持ち、
自分の関心として進行にリアルタイムに乗っかる楽しみ、
すなわち感情移入がなければ、作劇をしたことにはならない。
(プロットとは、そこまで書くことだ。
事件の経緯やあらましだけではプロットではない。
それが面白い話であることが、出来ていなければならない)


設定とは、豆知識のようなものだ。
人生の役に立ったり、決定を左右する情報にはなり得ても、
人生そのものではない。
posted by おおおかとしひこ at 12:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
前にもコメントしたどらです。
僕も30年近くファイブスターストーリーズを読んでいるものなので、あえて反論します。
まず、あの作品をWikiで読んで「読んだ」と思うのは可笑しいと思いますね。
大して巻数も無いので、全巻読んでからコメントしてください。
そうすれば、この作品が大岡さんとは異なるものを目指している作品であることがわかるかと思います。
あの作品のキモは、寧ろ年表そのものなんですよ。
一人の人物の行く末よりも、歴史を語りたい、とも作者はインタビューで答えてました。
アマテラスはあくまでも物語の水先案内人でしかないのです。
その代わり、誰しもが主役にも脇役にもなれる世界。
話が長くなるのではしょりますが、その世界の捉え方は七人の侍的な徹底したヒロイズムの否定によってますからね。
そもそも大岡さんとは志が異なると思います。
なのに、ご自身の尺度だけで安易にコメントするのは止めて欲しいです。
寧ろ、大岡さんはこのファイブスターストーリーズが何故こんなにも長い間うけているのか?その部分を分析して是非てんぐ探偵にフィードバックしてほしいです。
長文散文になりましたが、これからも応援してます。
頑張って下さい!!
全ての尺度
Posted by どら at 2015年03月14日 14:02
どら様コメントありがとうございます。
10巻ぐらいまでは100回ぐらい読むほど好きでしたよ。それぐらいまでは頭に入ってて、エルガイム時代の外伝的な設定資料も実家に帰ればあるはず。
ただ、コミックスの頭とケツの設定集をひっぺがして、
物語単体だけを見た場合、
それは物語として勝負出来るものではないと思います。
ビックリマンのチョコとシールの関係のような、どっちが本体かという。

あれは物語ではなく設定集です。
歴史は設定集で、物語ではありません。
歴史を題材にした物語は、歴史物語などと呼ばれ、歴史とは別のジャンルです。
そしてここの脚本論では、物語の立場から見ています。

永野宇宙の魅力は、フェチズムだと思っています。
フェチズムは微分的魅力であり、
積分的魅力である脚本と真逆の立場です。
(映画とは、積分的脚本に、各スタッフが微分的魅力を足すことで総合的に完成します)

小説に関しては、積分的魅力と微分的魅力の両方を文字だけで書けるように、精進したいと思います。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年03月14日 15:26
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