映画は三人称形である。
わたしや俺(一人称)や、
あなた(二人称)はいない。
教科書的な意味では知っている。
しかし本当に分かっていることとは違う。
まず主人公を自分にしてはいけない。
これに関しては散々書いてきたので詳しく議論しない。
三人称形の主人公は、あなたを反映させてはならない。
わたしでもあなたでもない、
別の興味深い人にするべきだ。
何故なら、客観性を失う原因になるからだ。
執筆の夢中のプラス面より、客観性のないマイナス面のほうが大きい。
自分ドキュメントは、余程客観性がないと余裕を失って破綻するし、
落ち(劇的解決やその意味)もなくなってしまう。
また、三人称形でない、
普通の読み物や映像には、二人称が時々登場する。
このブログでも意図的に使っているが、
あなたを脚本を書く人だと思って、
僕はちょいちょい話しかけている。
それは、他人のことではなく自分の問題でもある、
ということを強調するためだ。
自分事にする、なんてビジネス用語で言われたよね。
映像にもある。カメラ目線である。
ニュースは、基本的にあなたに向かって話す。
テレビの司会もそうだ。
バラエティーでは、司会とゲストが話すスタイルで、
ゲストは司会に話しているのだが、
ちょいちょいカメラ(あなたたち)に向かって話しもする。
公と私の使い分けのように見せて、私をオープンにする
(ように見せかける)テクニックである。
楽屋落ちや身内ネタも、そのひとつだ。
魔法少女花の子ルンルンは、「いつかあなたの町に来るかも知れません」だし、
ウルトラの星は「君にも見える」。
爆笑オンエアバトルの締めは、「次世代の笑いを担うのはあなたたち」だった。
テレビCMでも、タレントがカメラ目線で商品を持っているのは当たり前だ。
また、先日二歩をやらかして注目された橋本八段は、
NHK対局で、勝ったあとにちょいちょいどや顔でカメラ目線になり、
本来カメラ目線にならない筈の将棋対局で、
面白い人として話題になったことがある。
本来カメラ目線にならない筈の観客が、
カメラに気づいてカメラ目線になるのは面白い。
急に、あなたとコミュニケーションを取るからである。
あるいは、アイドルとバーチャルデートすればカメラ目線だし、
AVで目線が来ないことはない。
多くの広告やラジオなどでは、
「あなただけに秘密を打ち明けます」という誘いがよくある。
さて、厳密には、これらは全て三人称形では禁止だ。
インパクトがあり、
面白く、
強い、
自分事にする、
コミュニケーションをとる、
「あなた」に触ってはいけないのだ。
あなたを三人称形の中で出すのは反則なのだ。
(エヴァ劇場版で、メタ的にヲタク達を出したのは、反則だ。
そして「アニーホール」にもカメラ目線で実験的に反則したところもある。
当時は斬新だったが、今見ると中学生のいきがりにしかみえない。
反則で勝ちにいくのではなく、まともに勝ちにこいよ、と思ってしまう)
自分を出してはいけない。
二人称にも触ってはいけない。
他人と、他人が、他人の中で、他人事をする。
それが三人称形だ。
他人事なのに何故いつの間にか自分事になるかは、
感情移入というメカニズムが保証する。
(それについても死ぬほど書いたので、参照)
また、三人称形のストーリーは、
アイドルたちがきゃいきゃいと日常を送っていることも意味しない。
それは完全に他人事である。
その中に自分が入ることは出来ないからこそ、
他人も入ることの出来ない聖域なのだが、
それは、ストーリーではなく観賞だ。
動物園の動物を観賞することと、基本的に同じだ。
それは三人称形のストーリーではない。
三人称形のストーリーは、
いつの間にかその中に自分がいる。
感情移入によってである。
「完全の他人と他人のだった筈なのに、
いつの間にか自分事になっている」ことが、
三人称形のストーリーの条件だ。
あなたの書く話の中には、
あなたもわたしもいない。
それは徹底して排除することだ。
にもかかわらず、途中からいつの間にか、
私やあなたがその中にいる。
それが三人称形のストーリーを書くことである。
2015年03月17日
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