2015年03月16日

設定厨に陥らないために

まさか大先輩FSS(ファイブスターストーリー)
に噛み付くことになるとは、自分でも思わなかった。

FSSの設定などを見ていると、
設定厨に陥りストーリーに活かせない、
初心者にありがちないくつかのミスを見つけることが出来る。

何故FSSは設定は物凄く面白いのに、
いつまで経っても普通の話のように面白くならないのだろう?
何故あなたの書く物語は、
途中で挫折するか、最後まで書いても面白くならないのだろう?

初心者にありがちな共通のミスを犯しているからだ、
と議論してみよう。
仮にその病の名前を設定厨としてみる。


○バックストーリー設定

物語に必要なバックストーリーは、既に議論した。
下手くそな人のバックストーリーは、
何でもかんでもストーリー仕立てにしてしまうこと。
つまり、現在のストーリーを書くために、
もう一本ストーリーを書いてしまうことだ。

結果、バックストーリーのほうが面白くなってしまい、
現在のストーリーに作者が興味をなくしてしまう。
現在のストーリーが面白く進まないのは、
詳細過ぎるバックストーリーのせいかもしれない。

代表的なその例は、
うんこ実写映画「ガッチャマン」に見ることが出来る。
現在のジョーとの三角関係よりも、過去の三角関係が重視されてしまい、
我々は感情移入もしていない過去の清算の結末だけを延々と
(退屈しながら)見させられることになる。
重要なのは、現在の事件と人物への感情移入と焦点の維持であり、
過去話のそれではない。

上手なバックストーリーの使い手は、
現在の事件に必要な分しか持ち込まない。

バックストーリーは、現在時点の登場時の初期ベクトルに過ぎない。
それから何をするか、どのような軌跡を辿るかが物語であり、
登場より前のものは物語には含まれない。

上手な人のバックストーリーは、
劇中でわかる範囲に限定し、
それ以外を捨てることで成立させる。
人間にとって必要なのは、過去ではなく、
現在、どのような未来に向けてどう行動するかである。
その軌跡を物語といい、過去何があったかは物語とは言わない。

あなたは付き合う女の過去の男の話を楽しむのか?
今その彼女とどんなデートをし、今晩何をし、
来週や将来どうするかを楽しむのか?

前者を歴史といい、後者を物語という。



○実はAとBは同一人物である設定

同じ人物の仮面性(複数人格性)を描くのは、
仮面ものとして、それこそギリシャ時代からあるジャンルである。

何故仮面を被るのか。
仮面の人格でのドラマと、本当の人格でのドラマとの解離。
そして何故仮面を脱ぐのか。

これは典型的な二重人格の統合の型であり、
典型的なカタルシスのパターンである。
典型的ということは、古いのだ。
新しく描きなおせる場合に限り、
この型は面白くなる。
仮面ヒーローは、中世からあったジャンルだと思う。
超能力や超兵器によって、特撮仮面ヒーローというジャンルに、
それは生まれ変わったりする。

仮面ヒーローだろうがそうでなかろうが、
仮の自分と本当の自分、という公私の話がモチーフになる。
テーマは本当の私を見せたい、などだ。
このモチーフは危険だ。
あなたの未熟な願望が透けて見えるからだ。
あなたはリア充でないから脚本を書こうとする。
現実の自分は仮の自分で、
脚本を書く自分が本当の自分だと思ってしまう。
それが反映されやすい。
脚本に自分を書いてしまう愚を犯すことになる。
その危険性については度々警告している。
三人称形の物語は、自分を書いてはいけない。
だから、主人公の仮面の物語は、
初心者にとって危険なモチーフだ。避けたほうがよい。

勿論、「プリティーウーマン」並の面白い話を書ければ別だ。


主人公でない実はABは同一人物、のパターンはどうか。
それが驚きがあるのは当然だ。
それが物語にとって、意味のあるときのみ、その驚きは機能する。
ただの驚きでは単なる出落ちである。

例えば「11人いる!」の11人目の正体は、
なるほどね、という落ちになっている。
落ちにならない正体ばらしは、意味のないハッタリだ。


○特殊能力があり、この世界最強かも知れず、△△という二つ名を持つ設定

メアリースーの項でも述べたが、
中二的な全能感の変形だと思う。
別にその設定があっても構わない。
問題は、それを使って、これから何をするかだ。
バックストーリーと同じだ。
物語は過去ではなく、現在を積み重ねた未来にある。
これらが結局上手く活かせたものを、僕は殆ど知らない。
一瞬しか出ないキャラ、流星のように死ぬキャラには、
結構機能する気がする。(てんぐ探偵では、飛天僧正にこれを使っている)




さて。
これらの特徴に共通することを見抜けるだろうか。

出落ちだ。

過去の設定がいかに豊富でも、
今その場に出て何も出来ないのは、
物語においては出落ちなのだ。

あなたはもしかしたら全ての労力をかけて、出落ちしか書いてないのである。
だから続きが書けないし、
続きを書こうとしてまた設定をして、
また出落ちを続けるのだ。

設定厨は出落ちしか生まない。
だから設定厨は、脚本(ストーリーそのもの)の、敵だと言ってもよい。

あなたがストーリーを書きたいのなら、
まず自分の設定厨を殺し、
出落ちを自覚し、それを避けることを考えよ。

ではどうすればよいか。
与えられた状況に、登場人物が何を「する」かを描くのだ。
その結果何が「起こり」、
それにまた登場人物が何を「する」かを描くのだ。

ただ起こることに反応しているだけでは、
あたふたしている子供と同じである。
大人は自分の意思や目標を持って、
状況をコントロールし、自分に有利にことを運ぼうとする。
何が必要か。
目的である。

登場人物が目的を持ち、
ある状況に対して、何をするかを描く。
その結果状況が動き、また何をするかを描く。
その連鎖がストーリーである。
ストーリーはだから、不安定だ。
常に不安定だ。
状況は刻一刻と変わり、数学のような正解はない。

それは人生と同じだと僕は思う。
計画などある程度しか出来ない。
しかし、その目的に対して、
どれだけその状況から、
どんないかしたアドリブ行動をしたかが、
そしてそれで状況がどう動いたかという予断を許さない連鎖が、
ストーリーだと思う。


出落ちは、出て終わりだ。
漫画ならひとこま、映画なら数秒から一分。
残り全部を乗り切ることは出来ないだろう。
(典型的な出落ちは、スターウォーズEp1の、
ダースモールである)

僕は妖怪ものは出落ちではないか、と書いた。
妖怪や怪獣は、その登場までのストーリーが肝で、
出てしまえばあとは退治のバトルになるだけだからだ。
バトルそのものがシーソーゲームのような面白味のあるものにならない限り、
そのバトルは一瞬で終わるだろう。
つまり、妖怪ものや怪獣ものは、
出落ちまでが勝負タイムになる。


FSSは、要するに出落ち祭りにすぎない。
ストーリーそのものが面白い訳ではない。
MHのバトルが面白い訳ではなく、
MHの登場シーンがピークだ。
そして設定画のほうがピークだ。
(対比するなら、ファーストガンダムのモビルスーツか。
大河原邦男の設定したズゴックの絵より、
ジムの腹を貫いてスローで立ち上がるシャアのズゴックや、
カイのガンキャノンの両手を拘束し、排気を吐くズゴックのほうが、
何倍も魅力的だ。動いてなんぼか、動かないフェチズムかだ)


あなたの書くべき物語は、出落ち祭りになってはならない。
永野護は、デザイナーとしては不世出の天才である。
だが、デザイン設定するそれ故に、
ストーリーテラーとしては初心者レベルなのだ。

FSSの価値がこの俺の戯れ言ごときで落ちる訳がない。
相変わらずそれは出落ちとして永遠に魅力的である。
(ゴティックメイドはどうなんや?なんやあのブラックナイトは)

そう言えば、FSSはエルガイムのバックストーリーからはじまったのだった。
成り立ちからして、出落ちなのか。
(出落ちの研究をした、出落ち落ちの記事でも参照のこと)


あなたは出落ちのスペシャリストになるのか。
それとも優れたストーリーテラーになるのか。
前者を目指すならFSSを徹底研究するとよい。
後者を目指すなら、自分と同じ欠点をFSSに見いだし、
他山の石とするとよい。


設定厨は、永遠にストーリーテラーにはなれない。
使っている才能が、真逆なのである。



あとついでに。
キャラクターは年を取ってはいけない。
キャラが変わってもいけない。
キャラの維持がキャラの条件だ。

映画の登場人物は、真逆である。
変化を経験する。
それは成長もあるし、劣化もある。
一人として、変わらない人物はいない。
事件と解決による、人間の変化を描くのが映画だ。

変わらないキャラの、変わらない日常か。
変化する人間の、変化する状況か。

僕は、後者のことについて、ここで書いているつもりである。
posted by おおおかとしひこ at 03:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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