結局、物語とは、
「自分にまつわる設定」から逃れた瞬間に始まる、
という話。
物語とは、日常から離れて、
スペシャルワールドで冒険することだ。
日常を一幕で描き、
事件が起こったせいで、
主人公はそれを解決しなければならなくなる。
そこで日常を離れたスペシャルワールドで、
その解決をするのだ。
その解決過程こそ、物語である。
主人公を設定するのは一幕である。
つまり、一幕は物語にとって、
「捨て去るべきもの」だ。
(むしろ、こんな詰まんない日常から抜け出したい願望などが描かれることが多い)
ここに設定の意味がなくなる。
主人公の日常設定は、捨てるためにあるのだ。
何のために捨てるかというと、変化の為である。
捨てるという表現は極端だ。
それを伏線などに利用するからだ。
サナギに例えるか。
サナギになるときに、一度液体になるという。
自分の中の材料を、一回溶かして再構成する。
それが物語である。
最初の材料が設定だ。
何故冒険へ乗り出すのか、
そこで何が起こり、どんな決断をし、
それが周囲とどのような軋轢を起こし、
どう展開し、どう面白くなり、
ついには問題の解決の糸口をつかみ、
どう見事に解決し、
それが主人公の元々の日常にとってどんな意味があったか、
という物語に必要なことは、
設定には書いていない。
そこまで書けば、それは設定ではなくプロットと呼ばれる。
プロットは、時間的変化や経過を書く。
そしてそれが何故かも書く。
発端、経過、結末を書く。
一方、設定には時間的変化はない。
「現時点」の説明だからだ。
未来に起こりうることなどが設定されていても、
それが何故どのようにどうやって起こりどういう結末かまでは書いていない。
そしてそれが主人公の元々の日常にとってどんな意味があったかも、
書いていない。
だから、
設定は物語ではない。
初心者が犯す設定厨病は、
「生き生きと人物を動かせないこと」への不安から来ているかも知れない。
設定をすればするほど、生き生きと動くのではないかと。
実は逆だ。
設定は、縛りの多さなのだ。
その縛りを全て満たす魅力的な物語を書くのは、
上級者でも難しいのだ。
逆に、上級者ほど、縛りになる設定を減らす。
減らすというか、一点に絞り、あとはその場で書く。
のちのち齟齬が出るようなら、リライトで直す。
設定の齟齬が出ないように、そもそも設定なんてしない。
それでも人物を生き生きと動かせる?
勿論だ。
なぜか。
その人物に目的があるからだ。
目的があるからこそ、その人物は生き生きとする。
その人物は、
自分の日常をかなぐり捨てて、危険なスペシャルワールドに入る覚悟で、
とある目的を達成しようとしている、非常事態なのである。
そのような人物が複数いるから、
緊急事態同士がぶつかり合い、揉めるのだ。
目的の緊急性、切迫性が高ければ高いほど、
そのぶつかり合いや揉め事は、
緊張が高く、感情的で、かつ理性で制御しようと必死で、
傷つくことも傷つけることもあるだろう。
その軌跡が物語だ。
人物を生き生きと動かせずに、設定を増やすのは誤りである。
緊急の、どうしてもやらなけらばならない、
ひとつの目的をつくり、
それと矛盾する目的の人と揉め事を起こせば、
自然と生き生きとしてくる。
たとえばこういうエクササイズ。
次のワンシーンを書け。
「どうしてもこのドアを開けなければいけないAと、
どうしてもこのドアを開けられてはならないBが、
一枚のドアの前で、開けるか開けないかで揉める話」
落ちは開けたときに何があるかで示せるだろう。
ABの性格や年齢や職業や過去設定よりも、
どうしても開けたい/閉めたい「理由」が面白くないと、
この話は面白くならない。
その切迫した理由のために、物語の登場人物は、行動したり工夫したりする。
そのたった一つを設定することが、
本当の設定だ。
ABがサラリーマンだろうが女子高生だろうが、
伝説の聖剣持ちだろうが実はドラゴンだろうが、
ドアの前での揉め事の面白さには関係がない。
例えばトイレだとする。
どうしても開けたい人はうんこが漏れそうだが、言うのは恥ずかしい。
どうしても開けたくない人は、自分の彼女がうんこをしてて鍵が壊れてるから、
開けさせる訳にはいかない、としよう。
どうしても、の理由を探りあう話にする。
その会話劇、強行しようとするのを止める劇の面白さになるだろう。
このとき、ABの設定は物語に影響を殆ど及ぼさない。
その日常を捨てて、スペシャルワールド、非常事態に入るからである。
設定は物語の進行に関係がない。
多すぎる設定はむしろ縛りである。
むしろ進行に必要なものを、その場で設定するぐらいが、
ビビッドな物語を書ける。
その為に、事前設定は減らしておくのがコツだ。
2015年03月16日
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