作品というものは、すべからく精巧につくられるものである。
丁寧に計算され、技巧を尽くし、無駄がなく、
手を尽くされているものを、芸術品という。
そのガラス細工のような繊細さ、美しさ、完璧さが芸術品の価値だ。
そしてその手を尽くしたものが、
何のために手を尽くされて存在しているのか、が、
その作品の存在意義だ。
(CMは、「売りたい」という意味以外に、
かつては別の、フィルムとしての面白さが意味を持っていた。
しかしこの10年で急速にその意味を失い、
「売りたい」だけの意味に収斂された。
つまり、わざわざ見る価値のない、詰まらないものになった)
脚本もそのようなガラス細工の芸術品だと、
我々は思う。
しかし、現実にはそうではないということを、知っておくべきだ。
では我々は「何に」ガラス細工のような繊細さを込めるのか、
という話。
我々は脚本を書くとき、
磨きあげて磨きあげた、ガラス細工のような完璧な脚本を目指す。
台詞のリズム、句読点の位置、言葉の選び方、
ストーリー展開のテンポ、巧妙な伏線、
構造としての面白さ、モチーフ、テーマ。
それこそ一文字一文字、全てに自分の魂の一部を注ぎ、
完璧であろうとする。
よく戯曲家が、台詞を一字一句正確に言うまで役者を追い込む、
などと聞いて、そりゃそうだろと思う。
何故なら一文字変わるだけで、
台詞に込めた微妙なニュアンスが変わり、
作品の流れが微妙に変わってくるからだ。
磨きあげた完璧な流れが、
いまいちな流れになるからだ。
その流れを回復させることはもうできず、
その後の流れは全部ダメになるからだ。
書いた人間としては、当然そう思う。
そこまで考えた上で完成としたのだから。
ところが、そうだと考える人間は、
映画スタッフの中には誰もいないと思ったほうがよい。
(いるかも知れないが、そう思うのは、
外国の空港でバッグを置きっぱにするようなリスクである)
「脚本は叩き台に過ぎない」と誰もが思っている。
プロデューサーも、監督も、俳優も。
スポンサーも、観客も。
「脚本こそ至高の設計図である」と考えるのは、
よい脚本を書ける人だけだ。
残念ながら、そんなよい脚本はレアなので、
殆どの業界人は、ちょいちょい直しを入れながらでないと、
使い物にならない台本を目の前に、現実を生きている。
だから、「脚本は叩き台に過ぎない」。
問題は、それが悪習慣化して、
至高の設計図かどうか、判断する力を鍛えていないことだ。
直すことが仕事の人は、
直さなくてよいなんて、なかなか言えないものだからだ。
(直してギャラもらう人が、
直さなくてよいと言ってギャラが満額払われるようには、
日本の仕事のギャラ習慣にはない。
いまだにギャラは成果ではなく苦労代として支払われる)
更に問題は、
直して当たり前の業界のために、
直す必要のある、中途半端な脚本家が増えることである。
だって何やったって直されるんだから、
最初から7割ぐらいの完成度のほうが、
労力も少なくてすむし。傷つかないし。
こうして、脚本は鈍感な人達によって、
空洞化してゆく。
バラエティーの台本を、
テレビ放送初期と現在を見比べるとよいだろう。
初期は全ての台詞を覚えて、一字一句正確に言った。
(今でもアナウンサーの司会進行にはその名残がある)
今の台本は、立ち位置と進行の順番しか書いていない。
それは、脚本のぬるさが招いたのだ。
昔は全部生放送だったから、ゲストのしゃべる内容も、
事前に調査して、放送作家が短く効果的な話になるように書いた。
収録と編集によって、自由にしゃべらせてあとで編集したほうが、
リアルでビビッドな言葉が出るとされた。
それは、脚本家の敗北である。
(ちなみに、今芸能人がリアルに商品の感想を言うようなCMが、
支配的になりつつある。CMプランナーやコピーライターの敗北だ)
速報性や実感性は高いかも知れないが、
まとまった話をする、つまり、
ある程度知性に整理された、起承転結で物語るもの、
ということが、たいした台本でないがゆえに、自滅していったのだ。
脚本家としてこの業界に加わるとまず驚くのが、
直しの多さである。
直すならいっぺんに言ってくれよと思うのだが、
なぜだか第○稿のたびに上の段階に行き、
○稿のたびに別の直しをされ、
最初のガラス細工は原型をとどめない不細工なものになってしまう。
それは業界の悪癖としていつか根絶したいと思っているのだが、
現実にはそれでも尚面白くしてくれ、と言われるだけだ。
(自分の例で言えば、風魔の直しはいけちゃんより、
圧倒的に少なかった。だから最初のガラス細工の面白さがあった。
東宝の加藤さんが、「折角面白い台本を、素人が口出してぐちゃぐちゃにすべきでない」
と、守ったのだ。一方角川は、叩き台扱いだった)
理想は置いといて、我々は現実に対処しなければならない。
どこに我々のガラス細工のような精巧さを置くべきかだ。
台詞や構成なんて、朝令暮改である。
タイトルやテーマすら、度々変更される。
我々はストーリーテラーだ。
こまけえ枝葉はいい。ストーリーを精巧にしよう。
その、ストーリーそのものとは何か。
動詞である。
なんだかんだ言って、動詞は変更できないのだ。
(段取り自体は多少前後することはある)
例えば桃太郎。
どんなバージョンであれ、スカスカのペプシCMでさえ、
「鬼退治する」という動詞は不変だ。
そのために、「仲間を集める」も不変だ。
家来たちは「桃太郎の家来になる」も不変だ。
動詞には目的がある。
鬼は侵略のため、侵略する。
桃太郎は村を救うため、鬼退治する。
家来は吉備団子のため、桃太郎の家来になる。
(僕は、動物の家来は身分の低い一族のことで、
吉備団子とは、吉備の土地のちいさな領地のことだと考えている。
あるいは団子坂が談合坂だったように、
吉備の土地に関するなんらかの使用規約の談合ではないか。
漁業権とか、鉱物採掘権とか)
結末はどうだろう。不変でないこともあるだろう。
結末を変えて、テーマを真逆にすることは、
稀によくある。
ドラマ版「風魔の小次郎」が、
何故あれだけの改変をしながらも、
原作と殆ど同じ話に見えるのか、
(むしろ原作を上手く補完したように見えるのか)
の秘密がこれだ。
動詞と、その目的が、殆ど一致しているのだ。
小次郎は姫子に惚れて白凰学院を助ける。
姫子は、お祖父様の跡を継ぐために、学院を経営する。
蘭子は、姫子のサポートをする。
飛鳥武蔵は妹の治療費のために、傭兵をする。
絵里奈は、兄に心配かけまいとする。
風魔一族は、風魔総帥の命のもと、夜叉を殲滅する。
夜叉は関東制圧を目的に、侵略する。
壬生は、自分の自慢のために、闘う。
これが一致していて、なおかつバトルの結果が殆ど一緒だから、
「骨は変わっていない」と、感じられるのだ。
我々ストーリーテラーが、
技巧を込め、ガラス細工のように丹念に磨きあげるのは、
表面ではなく、
実はこの骨だ。
勿論、
名台詞や、上手な説明や、上手な段取りは、
それ以上いいリライトがなければ、
採用されて最終稿に残るだろう。
しかしそれは表面的なことだ。
我々の魂は、もっと奥底にいる。
動詞と、目的だ。
それが面白いストーリーが、面白い脚本になる。
それが出来ていない脚本が、ほんとうに駄目な脚本だ。
2015年03月20日
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