2015年03月21日

クリエイターの未熟2

先程の論では、本題よりも添削に重点を置いてしまったので。

件のCMが、クリエイターが想像したほど良くならなかったのは、
実体験に拘泥したためである。


実体験を物語に取り込むのはとてもいいことだ。

頭で考えるふわふわしたリアリティーより、
ずっとリアルな言葉や気持ちや人間関係を、
持ってくることが出来る。
自分が体験したという事実の強さもある。

だが、「自分が体験した事実の強さ」が厄介なのだ。
「あなたが強く感じたほど、
他人は強く感じないかも知れない」
ということを、忘れるからである。


ムカつく先輩または同僚
(実力もないくせに、チャラくて、俺意識高い系と思ってる奴。
スタバらしきコーヒーがその象徴)
に女として終わってるとか、
需要が違うし、と言われて傷ついたことは、
実体験だと思われる。
それほどのリアルがある。

問題は、そのリアルを客観的に見れていないことだ。

傷ついた女が立ち直れるほど、
これをチャラにしてくれるほど、
ルミネに力があると思えない。
実際の問題はここにある。
(よくわからないけど、シャネルのバッグのような高級ブランドなら、
これをチャラにしてくれるのだろうか。
恐らく否だ。中村うさぎの心の闇を見る限り無理だ。
つまり買い物依存症は、承認欲求のひとつの現れだ)


「私は傷ついた、を言いたい」という思いが勝りすぎて、
「ルミネの力(結論)を言いたい」ことに、勝ってしまっている。


あくまで、結論、テーマ、落ちは、
ルミネのリニューアルオープンだ。
「ルミネも変わる、私も変わる」というレトリックにおいて、
その動機が、傷ついたこと、ということでしかないのだ。

ルミネは傷ついたから変わるのだろうか。
実際はそうかもしれないが、
我々はそんなこと知らない。
つまり、ルミネは傷ついていない。

そこに「傷ついた私」が入ってくるから、おかしなことになる。

傷ついた私が変わる。
ルミネも変わる。

これがそのCMの骨格だ。
変だと思わないのだろうか。

傷ついた私がルミネと関係なく変わることと、
ルミネが変わることが、
パラレルになっていないことに。



本編内では、変わる私が、どのように変わったか示されないため、
「ルミネで買い物することで変わる」
という意味になってしまうことに、
クリエイターは気づいたか。
気づいていなければモンタージュに未熟だし、
気づいてて誤読させようとしたなら、
骨格のねじれに気づいていない未熟である。



さて、ここで、例のモンスターの名前が思い出されるだろう。
メアリースーだ。

メアリースーの動機は、
「私は何もしないけど、私はとても価値がある。
だからよしよしして」である。
「傷ついた私を認めて」という、
これを作ったクリエイターには、メアリースーが取り憑いている。
てんぐ探偵風に言えば、妖怪「認めて」に取り憑かれている。
(ちなみに妖怪「認めて」は、次の次の第八集に出てきます。
お楽しみに)


クリエイター、とぼかしたのは、
メアリースーが誰か不明だからだ。
プランナー、コピーライター、CD、監督、脚本家(いれば)、
宣伝部担当、宣伝部部長、
当たりの誰が、「需要が違うし」と言われて傷ついた私かは、
特定出来ないためである。
(僕は以前から、新宿ルミネの駅張りポスターのコピーに、
自分好きの個性的コピーを書いてる人がいるなあ、
と注目していた。橋本愛を起用したのもその人だろう。
恐らく、その人と推定されるが、違うかも知れない)

今のCMの構造を考えるなら、これは連帯責任だ。
この問題をコンテから読み取れなかった、
読解力のなさが原因だ。
その読解力がないのなら、ストーリーなんて扱わないことだ。
そして大抵の人はないから、連帯責任にしないことだ。
クリエイターに自由にやらせて、良ければ誉めて、悪ければ首にすることだ。
誉めるとは、高額のギャラで報いて次作を作らせることであり、
首にするとは、クリエイターだけを切り、次のクリエイターを探すことである。

クリエイターとスポンサーの関係になっていない、
連帯責任システムだから、
メアリースーの蔓延に気づかない。
何故なら、メアリースーは、素人で未熟なクリエイターに取り憑くからである。


図らずも、今のCM制作のシステムの欠陥が、
メアリースーに世間が気づかないまま、
関係者全員がメアリースーに気づかないまま、
露呈したことになる。
子供に大人になれといっても無駄で、
子供は自分が大人ぶるか、子供であることを利用するだけである。

気づけるのは、
メアリースーを克服しつつある、
我々プロクリエイターだけだ。




物語で、自分を主役にしてはいけない、
と僕はよく警告している。
それは、メアリースーに取り憑かれないための処方箋だ。



今回の例も、
男を主役にすればよかった。
男が需要が違うしと言われて傷つく話なら、
面白いと思われただろう。
物語の昇華は、
「自分と違うにも関わらず、
そこに自分と同じものを発見する」ことで起こる。
この原則に従えば、
「傷つく私」を、一端別の人に変換すればよかったのだ。
少年、少女、おっさん、おばはん、老人。
働く若い女でなければ、誰でもよかった筈だ。

さらにメアリースーを斬ろう。

「若い働く女が共感する、傷ついた私」が、間違いだ。
何故ならその傷は、ルミネではなく、
身近な人の承認によってしか癒されないからである。

クリエイターは、それを作品にして社会的に承認されるつもりになっているが、
クリエイター以外の「傷ついた私」は、承認されない。
だから問題なのだ。
おいそこのクリエイター。
お前のオナニーに、付き合わせるんじゃねえよ。
気持ち悪いんだよ。
お前の傷は、作品をつくることで承認されて昇華した。
しかし、それ以外に、似たような傷ついた私は、
昇華されないままだ。
つまり、お前は、自分を救うことで、
多くの傷ついた私を、更に傷つけたのだ。

だから、非難されるのである。

似たような「傷ついた私」は、世間に沢山いるだろう。
それを救う昇華は、
共感からは生まれない。

生まれるとすると、
別の人に感情移入して昇華する、
三人称文学によってである。

あのCMは、一人称の私小説でしかない。
しかも解決のない、傷ついた私の表現だけの。


あれをもって何かを表現したと思ってるのなら、
ちゃんちゃらおかしい。
猛省して出直すことだ。

創作表現とは、AをBで表現すること。
AをAで表すのは、論文とか説明文とかドキュメントである。

件のCMは、ドキュメントだ。
だから、現実と同じように、
ルミネで服を買う程度では、その傷を癒せない。
だからルミネがファンタジーの存在になり、
ラストが浮いてしまって、
ドキュメントの傷ついた私だけがクローズアップされるのだ。


他山の石とせよ。
あなたは同じことをしてないか。
posted by おおおかとしひこ at 11:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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