2015年03月21日

一息に話せるレベル

どんな話であれ、
複雑な話だろうが単純な話だろうが、
我々は頭で理解する。

つまり、我々の頭の中の理解が、お話の形である。

それは、一息で話せるレベルに縮約される。


今見た話を、あなたはすぐに、
僕に再現してみてほしい。
何があって、どんなところで、
何がどうなったかを。

それは、一息で話せるレベルのはずである。

一息、というのが、
ひと呼吸なのか、
色々話して一息つくまでかは、
とりあえず置いておこう。
前者なら数行レベルで、後者なら数分レベルの、
内容だろう。


あなたがどんなに凄くて複雑な話を書こうが、
あるいは単純な話を書こうが、
見た人の中では、
一息に話せるレベルまで圧縮される。

何故なら、人は意識を途切れさせない範囲内でしか、
物事を理解できないからである。


長文読解をなぜやるかと言えば、
その途切れない意識の範囲がどれくらいか見るためだ。
長い小説を読んだりすれば、その範囲を広げることが出来るだろう。
あるいは短くとも話を常にしたりされたりしていれば、
話を扱うことそのものに慣れて、
意識を途切れさせないことを鍛えることが出来ると思う。

その一息が、長い人と短い人がいる。
集中力と関係していると思う。


企画の打ち合わせをしていると、
その思考の範囲が、人によって随分バラツキがあることがわかる。
特定の分野しか集中力が持たない人、
満遍なく深い人、ムラのある人ない人様々だ。

あなたは、このような人々に、お話をするのである。


自分のしている話が分からなくなったら、
誰かに、一息で話してみるといい。

無呼吸でやる必要はなく、
落ちまで一通りを、あなたが話しきったと思うまでだ。
適度な省略をしないと話せないだろう。
しかし面白いところは省略せずにそのまま話すだろう。

なんにせよ、頭のなかで一息で理解できるレベルで、
話すことである。

このことで分かるのは、
話としていびつかどうかだ。

余計な枝葉があったり、物足りないようなとき、
この一息の理解は気持ちよくない。
なんかややこしい、整理してくれ、と思ったり、
無意識にあってほしいものがなかったりする。

その一息の理解を、体感することだ。


原稿だけを睨んでいると、
説明を足したくなったり、
要らないと思われる所を削ってしまう。

しかし、それは一息の理解に必要かどうかで、判断するべきなのだ。

何故なら、物語とは、絶対正しいことを書く真実の文ではなく、
面白いことが正義だからだ。
それは、どのように一息で理解されるか、
という形をしているべきなのだ。



小説「てんぐ探偵」を書いてて分かったのは、
一話の中にある、「節」がその単位になっていることだ。
僕の体が手書きで書けて、
一息で話せて、一息で理解できる量が、
丁度一節ぐらいなのだ、ということに気づいた。
それから書くのが楽になった。

シナリオでは、これは1シークエンスに相当する。
1シーンより大きな単位である。
1シークエンスは、最大でも7分半というのが僕の仮説だ。
(それ以上は2ブロックに感じる)
大体てんぐ探偵は元々30分想定だったから、
概ね4節という小説版の構成は、直感に近いことになる。
小説版の経験で言うと、その一息は、A4手書きに一枚半から二枚だ。
(長い奴でも4枚)
原稿用紙換算でA4一枚は2枚ぐらい書いてるので、
3、4分から8分が、1シークエンスの分量になる。
概ね、シナリオと計算が合うことが分かっている。
(人間の本能的なことなのか、
シナリオを鍛えた後天的能力かは不明)


一息の理解。
一息で話すこと。

ストーリーは、結局ここに集約されると、
今はなんとなく考えている。


(てんぐ探偵第一話のリライトに、ようやく着手しはじめた。
第一節が丁度A4二枚になって、確信することができた)
posted by おおおかとしひこ at 16:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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