どんな話であれ、
複雑な話だろうが単純な話だろうが、
我々は頭で理解する。
つまり、我々の頭の中の理解が、お話の形である。
それは、一息で話せるレベルに縮約される。
今見た話を、あなたはすぐに、
僕に再現してみてほしい。
何があって、どんなところで、
何がどうなったかを。
それは、一息で話せるレベルのはずである。
一息、というのが、
ひと呼吸なのか、
色々話して一息つくまでかは、
とりあえず置いておこう。
前者なら数行レベルで、後者なら数分レベルの、
内容だろう。
あなたがどんなに凄くて複雑な話を書こうが、
あるいは単純な話を書こうが、
見た人の中では、
一息に話せるレベルまで圧縮される。
何故なら、人は意識を途切れさせない範囲内でしか、
物事を理解できないからである。
長文読解をなぜやるかと言えば、
その途切れない意識の範囲がどれくらいか見るためだ。
長い小説を読んだりすれば、その範囲を広げることが出来るだろう。
あるいは短くとも話を常にしたりされたりしていれば、
話を扱うことそのものに慣れて、
意識を途切れさせないことを鍛えることが出来ると思う。
その一息が、長い人と短い人がいる。
集中力と関係していると思う。
企画の打ち合わせをしていると、
その思考の範囲が、人によって随分バラツキがあることがわかる。
特定の分野しか集中力が持たない人、
満遍なく深い人、ムラのある人ない人様々だ。
あなたは、このような人々に、お話をするのである。
自分のしている話が分からなくなったら、
誰かに、一息で話してみるといい。
無呼吸でやる必要はなく、
落ちまで一通りを、あなたが話しきったと思うまでだ。
適度な省略をしないと話せないだろう。
しかし面白いところは省略せずにそのまま話すだろう。
なんにせよ、頭のなかで一息で理解できるレベルで、
話すことである。
このことで分かるのは、
話としていびつかどうかだ。
余計な枝葉があったり、物足りないようなとき、
この一息の理解は気持ちよくない。
なんかややこしい、整理してくれ、と思ったり、
無意識にあってほしいものがなかったりする。
その一息の理解を、体感することだ。
原稿だけを睨んでいると、
説明を足したくなったり、
要らないと思われる所を削ってしまう。
しかし、それは一息の理解に必要かどうかで、判断するべきなのだ。
何故なら、物語とは、絶対正しいことを書く真実の文ではなく、
面白いことが正義だからだ。
それは、どのように一息で理解されるか、
という形をしているべきなのだ。
小説「てんぐ探偵」を書いてて分かったのは、
一話の中にある、「節」がその単位になっていることだ。
僕の体が手書きで書けて、
一息で話せて、一息で理解できる量が、
丁度一節ぐらいなのだ、ということに気づいた。
それから書くのが楽になった。
シナリオでは、これは1シークエンスに相当する。
1シーンより大きな単位である。
1シークエンスは、最大でも7分半というのが僕の仮説だ。
(それ以上は2ブロックに感じる)
大体てんぐ探偵は元々30分想定だったから、
概ね4節という小説版の構成は、直感に近いことになる。
小説版の経験で言うと、その一息は、A4手書きに一枚半から二枚だ。
(長い奴でも4枚)
原稿用紙換算でA4一枚は2枚ぐらい書いてるので、
3、4分から8分が、1シークエンスの分量になる。
概ね、シナリオと計算が合うことが分かっている。
(人間の本能的なことなのか、
シナリオを鍛えた後天的能力かは不明)
一息の理解。
一息で話すこと。
ストーリーは、結局ここに集約されると、
今はなんとなく考えている。
(てんぐ探偵第一話のリライトに、ようやく着手しはじめた。
第一節が丁度A4二枚になって、確信することができた)
2015年03月21日
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